『耳をすませば』について(14)



 場所とアイデンティティとの関係について、ここ数回にわたって問題にしてきた。場所というものに着目することが、近年のサブカルチャー作品を見ていくにあって、重要な観点となるだろう。場所の移動や風景の変化というものは、そこにいる登場人物のアイデンティティの変化をも示唆している場合があるのだ。


 例えば、『ツバサクロニクル』のような作品のことを考えてみよう。この作品の隠れたテーマとは、ある種の倦怠感といったものではないだろうか? つまり、どこかで見た風景なり人物なりが何度も繰り返して現われる、という倦怠感である。これは、まさに、今日のサブカルチャーが置かれている状況そのものであるだろう。どこかで見たことのある風景や人物が様々な作品に出てくること。ここでの最大の問題とは、事態は何も進展していない、ということである。


 こうした議論の流れの中で、次に問題になることは、時間の分節化である。われわれは、通常、線的な仕方、あるいは、量的な仕方で、時間を分節化しているが、それとは異なる仕方で時間を分節することが必要になってくるのではないか? 同じことが何度も繰り返されるのではなく、そこに質的な変化をもたらすことが必要だ、ということである。


 なぜ必要なのか? それは、そのような質的な変化によって、意味をもたらそうとするためである。別の言い方をすれば、そこで別の局面に移行することによって、新たに生まれ変わることができると思われるからである。これこそが、死への道程としての人生、線的な時間としての人生に捻りを加えるための方法である。


 おそらく、ここで参考になるのがユーモアである。ユーモアとは、物事を別の方向から見るための視点である。そこで対象となっている物事自体には変化はないのだが、視点を変えることによって、その意味を変化させようとするのである。


 僕が批判したいこと。それは、「夢」というものを持ち出すことによって人生に意味を与えるようなやり口である。この種のやり口は、線的な時間に段階を設定することによって、そこに質的な変化を生み出そうとする。しかし、このやり口の欠点は、その目標の到達を無限に先延ばしするところにある。『ドラゴンボール』のような物語が典型的であるが、もし最強の敵という存在がいなくなってしまえば、悟空の生きる意味(これは『ドラゴンボール』という作品の意義そのものだが)は見失われてしまうことだろう。それゆえ、場合によっては、『ドラゴンボールGT』のような作品でなされたように、悟空が時間的に後退する必要も出てくるのである。


 無限遠に先延ばしにされる目標。そのように設定された「夢」が問題であるのは、端的に言って、われわれが死ななければならない存在だからである。つまり、有限な存在にとっては、無限の時間というもの(これは永遠とは異なる)は、われわれの身に余るもの、結果われわれの存在を無意味なものにしてしまうものなのである。


 このような時間にまつわる一連の問題こそ、ゲームという領野が専ら提起している問題であるだろう。ゲームの基本的な特質は、まさに、このような無限の時間という点にある。ゲームには終わりはない。ゲーム上に見出される様々な終わりは、仮の終わりでしかない。「ゲームは一日一時間」という高橋名人のモットーが端的に示しているように、ゲームの時間を制限するためには、メタレベルにある時間を導入する必要があるわけである。


 この点で、『.hack//SIGN』で描かれている恐怖とは、われわれが無限の時間を生きざるをえなくなったときに感じられる恐怖、不死の恐怖である。さくらももこの短編マンガに、朝食のひとときが無限に繰り返されるというものがあったが、これは、無限の時間というものがいかにわれわれをうんざりさせるものであるかということを示す良い例だろう。


 つまるところ、夢を見るということの中には、人をうんざりさせるような何かが備わっているということである。このため、ここで避けるべきことは、時間を線的なものとして考えることである。時間を分節化するにしても、それを単に(量的な単位で)機械的に行なうのではなく、何か別の分節法を導入する必要があるのではないか、ということである。


 「夢」という観点から『耳をすませば』という作品を見ていくと、この作品が、自己実現の物語に対して、いくつかの捻りを加えていることが分かる。まず、この作品が避けようとしている結末は、雫が素晴らしい作品を書き上げ、自身の作家としての才能を発見する、というものである。彼女は西老人から承認を与えられるわけだが、それは、作品の出来具合に対してではなく、必死になって作品を書き上げようとするその態度に対してである。


 しかし、マンガ版の『耳をすませば』を参照するのであれば、事態はもっと異なっていると言えるだろう。雫の創作活動とは、言ってみれば、パースペクティヴを変化させることなのである。雫の作品に出てくるものは、雫が日常生活で見聞きしたものである。そうした諸断片が別の文脈の中で別の意味をもたされているわけである。


 こうした活動は、時間概念で言えば、線的な時間とは異なるものだろう。つまり、そこには、段階や発展という観念がないのである。


 この点こそが、『耳をすませば』というファンタジー作品の特異なところである。通常のファンタジー作品、現実世界と異世界という二つの世界が描かれるファンタジー作品であるのなら、主人公が異世界へ行くという行程が必ずそこに入ることだろう。だが、『耳をすませば』において、雫は、そうした行程なしに、直接、異世界に入りこんでいるのである。


 そのことを端的に表わしている場面が、物語を書くことを決め、地球屋の主人にバロンを主人公にする許可をもらいに行ったあとで、雫が物語の一部を夢想するシーンである。そこで、雫は夢想をしながら、階段を駆け下りていくわけだが、その夢想の場面と雫が階段を駆け下りているシーンとは連続している。バロンと(雫の物語に登場する)女の子が飛び去った風景の真下に雫がいるのである。


 この空間的配置こそ、ファンタジーの本質であるだろう。ファンタジーは、別の世界にあるわけではなく、この世界の中に組み込まれているわけである。このような世界の中に組み込まれた別の世界を引き出すために必要になってくるのは、一種の読解能力、現実世界の中にファンタジーを読み取る能力である。この能力が発動された瞬間こそ、雫が(心の中の)音を聞いた瞬間、雫が耳をすませた瞬間なのである。


 このようなファンタジーのあり方は、ノスタルジーのあり方とほとんど同じものである。ノスタルジーにおいてもまた、そこで変化するものとは、対象ではなく、パースペクティヴである。例えば、懐かしさを感じさせる音楽を聞いたとき、その音楽が置かれている場所は、そこにおいて、二重化されている。現在その音楽を聞いている場所と過去その音楽を聞いた場所とが、その音楽を媒介することによって、二重化されているわけである。こうした二重化の体験が、まさにファンタジーにおいても、生じていると考えられるのである。


 さて、このようなところで、僕が現時点で『耳をすませば』について言いたいことは、ほぼ言い尽くしたと思っているので、この連載も次回あたりで終わりにしたい。言い残したことや言い足りなかったことは多々あるが、それはまた別の機会に、別の観点から述べることにしたい。次回は結論と共に、今後の方向性を大まかに示してみたい。