『耳をすませば』について(4)



 前回は、物語を読むことから書くことへの移行に焦点を合わせる形で、『耳をすませば』のストーリーを追っていった。物語を読むことから書くことへの移行をどのように評価することができるのかという点が、この『耳をすませば』という作品をどういった方向から読んでいくのかという、読解の方向性を決定づけることになるだろう。


 原作のマンガとアニメとの大きな違いは、アニメのほうが、この「書く」という行為をひとつの試練にまで昇華しているところである。アニメにおいて、物語を書くことが雫にとって非常に深刻な事態であるのは、それが、受験勉強を脇に置いてまでやっていることだからである。彼女にとって「やらなければならないこと」があるとすれば、それは、何よりもまず、受験勉強だろう。というのは、中学校を卒業したあと、取り立てて他に進路を決めていないとすれば、多くの人がそうやっていることの真似をして高校に進学するというのが一般的な通念となっている、という意味においてである。その点で、父母姉という三人の家族が雫に対してプレッシャーを与えているわけである。だが、雫は、そのような、すでに決められた道に、なぜだか分からないが、満足はしていない。勉強に時間を使うよりも、本を読んでいたほうがいいと考えるわけである。このような要領の悪い女の子にとって、中三の二学期という時期に物語を書こうとするなど、「狂気の沙汰」とまでは言えないにしても、かなりの冒険的な行為ではあるだろう。


 アニメの雫がこのように深刻な状況にあるのに対して、マンガの雫のほうは、少々お気楽である。マンガの雫のほうは中学一年生で、受験の心配などまったくしていない。従って、その創作活動も、「将来のことを考えて云々」といったことは、まったく考慮に入れられていないのである。


 しかしながら、アニメとマンガを接近させてみるならば(マンガからアニメが派生したことを考えるのならば)、受験生であるかそうでないかということは、それほど重要な点ではないだろう(アニメの受験生という設定は、問題をはっきりと浮かび上がらせるのに適切な設定だったと言うことはできるだろうが)。重要な点は、前回問題にしたように、雫のファンタジー世界が危機に瀕していること、『ネバーエンディング・ストーリー』の「虚無」のような存在に襲われようとしていることである。この「虚無」のような脅威のことを前回「現実」と名づけたが、まさに、この「現実」との闘争こそが、雫にとって、最大の問題なのである。


 「現実」との闘争という側面は、マンガにもはっきりと見出せる。アニメにおいて、雫は、「本を読んでもね、このごろ前みたいにワクワクしないんだ」ということを告白するわけだが、同様の台詞がマンガにも出てくる。それは、聖司と雫との会話の場面であるのだが、この場面は、マンガの中で、極めて重要な場面だと思われるので、以下、その前後の台詞を抜き出してみたい。

聖司「去年さ、突然、おやじに言われたんだ。『いつまでも、そんな本読んでるんじゃない』って。あにきの時もそうだったんだ。あにきは、まっ向からぶつかって、おやじと対立してるけど、何か、オレは、そういうふうにもできなくて、最近じゃ、かくれてコソコソ。でも、何か、悪いことやってるような気がしてさ」
雫「変だね、そんなの」
聖司「しょーがないよ。絵もじいさんのところで描いてるだけ。医者にしたいんだろうけどさ」
[…]
雫「…私ね、いつも本読んで、つまんなかったり感動したり、いろいろ感じるけど、そんな時、音がするの」
聖司「音?」
雫「うん、音。その音、何だかずっとわからなかったんだけど、地球屋で猫の人形の話を聞いて、あなたの絵を見て、少しね、わかった気がするの。でも、最近、あんまり聞こえないんだ。何か…、本を読んでも、ものたりないような感じがして…」
聖司「じゃあ、自分で書いてみれば?」
雫「――――え!?」
聖司「書いてみりゃいいじゃん」
柊あおい耳をすませば』、集英社、1990年、132-135頁)

 この会話の中には非常に多くのエッセンスが詰まっている。まず、第一に、最初の聖司の台詞にあるように、聖司は「現実」に直面している。アニメのほうでははっきりとは分からないが、聖司も、雫に劣らぬほど、ファンタジー好きなのである。そうしたファンタジーの世界を脅かすような何かがやってきつつあるというわけである。


 そして、その後に出てくる雫の「音」についての話。これは、この作品のタイトルである「耳をすませば」の対象が何であるのかがはっきりと示されている台詞である。この点も、アニメでははっきりとは描かれていないところである。つまり、いったい、何に「耳をすます」のかと言えば、それは、心の中で鳴る音なのである。


 この音は、マンガの中で、水面に水滴(まさに、この水滴が、「雫」という名前の元にあるものだろう)が落ちて波紋が広がるというイメージで、その描写がなされている。この水滴の描写は、マンガの中で、二回出てくる。ひとつは、図書カードに「天沢聖司」という名前を見つけ出したとき。もうひとつは、猫の人形バロンの輝く目を見たときである。


 この心の中で鳴る音とは何だろうか? それは、簡単に言ってしまえば、「心ときめく」という言葉で示されるようなワクワク感を指しているだろう。しかし、もっと言えば、この音とは、ファンタジーの起源にあるもの、ファンタジーがそこから形成される芽のようなものではないだろうか?


 このように述べてくると、そもそもファンタジーとは何か、ということが問題になってくる。僕は、ファンタジーとは、現実世界でのひとつの経験であって、物語化したファンタジー作品とはその経験の結晶化した産物だと思っている。このことを理解していただくためには、多くの宮崎作品が参考になるだろう。


 宮崎駿のファンタジー要素とは、背後世界を読む(想像する)ことによって生み出されたものである。以前、『千と千尋の神隠し』が公開されたときに、テレビで宮崎が言っていたことだが、彼は、小さいとき、銭湯で見た小さな扉がすごく気になったのだと言う。その扉の奥にはどんな世界があるのか、『千と千尋』で描かれたような異世界があるのではないか、と夢想したわけである。


 このような夢想された背後世界は、まさに、『となりのトトロ』という作品の中で、中心的に描かれていたものである。『ちびまる子ちゃん』にもそのようなエピソードがあったが、子供の頃、一度行ったはずなのに、もう二度と行けない場所というものがある。偶然迷いこんで行けた場所に、もう一度行こうとすると、もう行けなくなる。『トトロ』において、それは、メイが迷いこんだトトロの住みかである。メイがもう一度トトロのところに行こうとしても、そこに再び行くことはできなかった。


 メイは、小トトロの後を追いかけてトトロの巣に辿り着いたわけだが、同様の図式が『耳をすませば』にも見出せる。電車に乗ってきた猫を追いかけて、地球屋に辿り着いた場面がそれである。こうした日常生活の体験そのものが、まさしく、ファンタジーだと言えるだろう。そこにある部分的な要素のひとつひとつ(猫や地球屋の存在)は現実的なものかも知れないが、総体としての経験がファンタジーを生み出しているのである。


 この点に関して、マンガのほうで、雫は、地球屋を出たあと、「まるで別世界にきたみたい」と言っている。この台詞をもっと正確に言い表わせば、すでに、そこには、別世界そのものが出現しているのである。この後の場面で、雫の感動は頂点に達するのだが、その場面は、まるで、ばらばらだったジグソーパズルのピースがすべてかっちりはまったときの瞬間のようである。猫を追いかけて地球屋にやってきたこと、その猫を連れて天沢航司(天沢聖司の兄)がやってきたこと(「天沢」の名字は、もちろん、図書カードで見たものである)、そして、そこに、飛行船が低空でやってきたこと。これらの要素は、そのひとつひとつだけを取り出して見れば、何かを指し示している謎めいた符牒のようなものである。そうした諸断片からひとつの全体が透けて見えるときに、心の中で音がするのである。そこでの隠れた全体を見透かすことが、まさに、ファンタジーを体験することであり、その点で、このシーンでの雫は、まさに、ファンタジーそのものを生きていたわけである。


 このような体験の延長線上に雫の「書く」という行為が位置づけられるわけである。つまり、それは、自分で自分の中に音を鳴り響かせる行為である。あるいは、文字通り、「耳をすます」行為と言えばいいだろうか。そのような創作行為は、アニメで主として描かれていたような、ある種の試し、自分の可能性を探る試みとは、まったく異なるものだろう。この点がアニメとマンガとの大きな違いである。


 しかし、アニメはアニメのほうで、マンガがひとつの可能性として秘めていたものを大きく前面に取り出したという側面もある。それは、上記したファンタジーの芽の水準に、「カントリーロード」の訳詞がはっきり示しているようなノスタルジーの要素を付け足したことにある。さらに、ここに、少女マンガの中心的な主題である「恋愛」という要素を付け加えれば、事態はさらに複雑になることだろう。ファンタジー、ノスタルジー、恋愛という三つの要素が絡み合っているのが、アニメ『耳をすませば』という作品なのである。


 次回もまた、創作行為とファンタジーとの関係をもっと深めていきたい。