『耳をすませば』について(13)



 前回も、いくつかのアニメ作品を通して、場所とアイデンティティとの関係を考察してみた。前回問題にしたかったことは、『十二国記』で端的に描かれているような「ここは私の場所ではない」という感覚である。その点で、「ここではないどこかに」、本当の「私の場所」があるということから、ファンタジーやノスタルジーについて考えてみよう、ということを提案したのである。


 それゆえ、異世界とは、極言すれば、「私のいるべき場所」のことである。ノスタルジーによって喚起されるような故郷とは、「私のいた場所」のことである。この二つの場所は、現実世界を越えたところに想定される場所であるが、しかし、それは、別の観点からすれば、現実世界の中に折り畳まれている場所だとも言える。


 この二重性こそ、僕が「反復的再発見」という言葉で指し示そうとしているものである。つまり、時間の比喩を用いれば、われわれは、現在だけを生きているわけではなく、同時に過去にも生きている。フィリップ・K・ディックの小説『ヴァリス』の中で、実際の時間が紀元後百年くらいで停止していて、見かけの時間の変化は一種の錯覚のようなものだという話が出てくるが、そうしたことが実際に起こっていると考えられるのである。


 この点で、ノスタルジーとは、単に、過去の記憶を思い出すこととは異なることが理解されるだろう。ノスタルジーとは、過去に自分が立っていた場所にもう一度立つことであり、そうすることによって、自分のパースペクティヴを変化させることである。『ファンタジックチルドレン』で、主人公たちが前世の記憶を思い出すとき、彼らの髪の毛が真っ白になるが、この変化は、ある根本的なポジションの変化をヴィジュアル化したものである。


 『ファンタジックチルドレン』は、有名なプラトンの想起説を思い起こさせる作品である。プラトンによれば、人間の魂というものは不滅であり、個体としての人間が死んだとしても、生まれ変わって永続するものだという。ここにおいて重要な分節がなされているのは、それゆえ、忘却と想起との間である。われわれは、通常、その忘却によって、自分のいるべき真の場所を忘れているが、その想起によって、不滅の場所を思い出すことができるというわけだ(こうした不滅の場所の探求が、セカイ系の物語を駆動している原動力になっている)。


 さて、ここで、再度、物語というものの性質について、少し考えてみたい。最近、宮台真司の『この世からきれいに消えたい。』という本を読み返していて、興味深い記述を目にした。それは、彼の(他のいろいろな本にも出てくるが)意味と強度とを対立させるという議論である。この本は、宮台真司の愛読者だった、ある自殺した少年についての本なのだが、宮台は、この少年の問題を、「(人生は)そこそこ楽しいけれども、無意味だ」というふうに端的にまとめている。つまり、自分の人生に意味を見つけられずに、その空虚さのために彼は自殺したのだ、というふうに分析しているわけである。


 この議論の中で、宮台は、物語を意味のほうに位置づけている。つまり、物語とは、無意味な諸断片をひとつに統合して、その結果、意味を生じさせる役割を果たすものなのである。僕は、物語を常に、日常生活と対立させて考えているが、ここで言う日常生活も、無意味な諸断片のことである。


 われわれは、概ね、物語と日常生活との間のギャップに苦しんでいるわけである。つまり、われわれは、完全に物語の中に没入できるわけではなく、当然、そうした物語から零れ落ちてしまうものがある。場合によっては、そうした零れ落ちたもののほうに、自分自身の自己像を見出すこともあるだろう。あるいは、そのような物語自体が成立しない場合もある。それこそが、まさに、宮台の弟子である鈴木謙介の書いた『カーニヴァル化する社会』で提示されている問題であるだろう。宮台は、意味と強度とを対立させているが、意味とは強度を内包しているものだとも言えるだろう。つまり、自分のやっていることに意味があると考えられるから熱くなれる、というやつである。


 ここに、いわゆる、「夢」についての厄介な問題がある。僕は、今日の重要なイデオロギーのひとつとして、「夢を持て」という道徳的価値判断があるように思える。夢とは、つまり、物語のことであり、未来のある一点に向けて、日常生活の諸断片を意味あるものにしようとする試みのことである。


 この点から、今日のサブカルチャーを見ていくのであれば、はっきり言って、その物語構造は、数十年前とほとんど変わっていないと言わざるをえない。もちろん、そうしたものとは異なる作品もいくつか見出すことができるが、「夢を持て」系の作品が現在でも強い力を持っていることは間違いないだろう。


 僕は、その点で、「ドラゴンボール」のような拡大再生産系の物語にも否定的であるし、その亜流である「愛するものを守るために闘う」系の物語にも否定的である。この二つの物語が、その意味という側面から、われわれを熱くするものであることはまったく否定しないし、その重要性は十分認めるところである。しかし、拡大再生産系の物語にはマンネリズムの虚無感が宿り、「愛するものを守る」系の話には他者の絶対化、他者への全面依存の傾向が見出される。この点で、僕が最近注目しているのは、こうしたマッチョ系の作品の対極に位置するような萌え系の作品である。


 しかし、マッチョと萌えとは、単純に対立しているわけではない。むしろ、この二つの要素を兼ね備えた作品が今日に出てきているという点に注目すべきだろう。それは、例えば、『ふたりはプリキュア』や『舞-HiME』のような作品である。


 『プリキュア』については、以前に述べたことだが、日常生活の小状況と、光と闇との闘いという大状況との分裂が顕著に見出される作品という点で、『フタコイ』と似たような問題を提起している作品だと言える。


 おそらく、萌えは、プラス・アルファの要素として機能しているだろうから、それは、先行するあらゆる物語に宿ることができると考えられる。この点で、僕が「萌え系」という名前で呼んでいる作品群は、宮台真司に倣って、「まったり系」と呼んだほうが適切な位置づけができるかも知れない。


 例えば、『苺ましまろ』や『あずまんが大王』について、物語ということで何が言えるだろうか? そこに物語がないとは決して言えないだろう。そこには、厳然として、物語が存在している。そこから、非常に多くの挟雑物が排除されているわけである。


 しかし、そこには、大きな物語は存在しない、とは言えるだろう。『あずまんが大王』のように、ある時に始まって、ある時に終わるというそこでの区切りは、単に、高校時代という線的な時間の区切りであって、物語上の起伏はほとんど存在しないと言えるだろう。


 『あずまんが大王』のラストシーンが象徴的に示していることは、時間はたんたんと流れていく、ということである。主人公たちは最後どこかに向かって歩いていくわけだが、しかし、その先で起こることは、おそらく、それまでにやってきたこととほとんど同じであるだろう。その点で、彼女たちは、本質的な時間の経過を経験していないと言えるわけである。まさに、こうしたことこそが、ディックが扱っている二つの時間の位相の問題ではないだろうか?


 『耳をすませば』に話を戻せば、雫にとっての問題とは、物語の再構成の問題である。雫は、明らかに、自分の実人生よりも、ファンタジーの物語のほうに魅力を感じていた。しかし、自分の実人生のほうにリアリティを感じ始めると、逆に、ファンタジーの物語のほうに魅力を感じなくなってしまう。これは、リアルとフィクションとの間の葛藤ではなく、物語と物語との間の葛藤である。受験というのは、まさに、ひとつの物語以外の何ものでもないだろう。


 ここで重要な分節化は、「ありえる」と「ありえない」との間で行なわれる。雫にとって、一連のファンタジーの物語が「ありえないこと」として捉えられたとき、そのときこそ、彼女がひとつの危機を迎えたときである。この点で、『耳をすませば』という物語それ自体は、「ありえないこと」が起こった作品だと言える。そこで描かれているのは、世界の隠れたネットワークの発見である。


 世界とは「ありえないこと」が起こる場所だ、というのが、おそらくは、宮崎駿の作品の主張したいことなのだろう。その点で、宮崎アニメにおいて重要なのは、奇跡の起こる瞬間である。


 その描写が見事である作品は、やはり、『ナウシカ』、『ラピュタ』、『トトロ』の三作品であるだろう。『ナウシカ』の奇跡とは、ナウシカが「誰にも止められない」はずの王蟲の大群を止めたこと、王蟲たちとコミュニケーションを交わすことができたことである。このラストシーンで興味深い点は、大ババ様が引用する予言と、現にそこに出現している風景との合致である。この合致は、まさに、反復的に再発見されたものに他ならない。つまり、その危機的な状況のただ中にあっては、誰もその予言について思いを馳せることもなかったわけだが、事態が決定して以後、予言が思い出されることによって、「予言の実現」ということが再発見されたわけである。


 まさに、こうしたことに端的に現われているように、奇跡とは、「ありえないこと」が「ありえること」になる瞬間だと言える。こうした奇跡の発現の場が存在することを、宮崎駿は主張しているように思えるのだ。


 しかし、『耳をすませば』以後の宮崎作品は、そうした奇跡の場の位置づけに失敗しているという印象を持つ。つまり、奇跡というものが、あたかも、内的な努力によって起こるかのように描いているところに問題があるのだ。『もののけ姫』の「馬鹿」の存在(絶対的に何かを信じることができる存在)は、奇跡を起こすための必要条件かも知れないが、しかし、やはり、ニュアンスは、以前の作品と異なっているように思える。


 重要な点は、世界をどのようなものとして描いているのか、ということである。「ありえないこと」が起きる場所としての世界とは、われわれの予期を常に裏切る世界ということである。そこにある認識の変化は、誤解を通した再発見というものである。しかし、後期の宮崎の世界観では、そこにアニミズムの世界観が強く導入されたためかも知れないが、世界との応答が前提とされているようなところがある。何かメッセージを発すれば、それに応えてくれる世界がある、というような世界観である。こうした形での奇跡の発現は、再発見という驚きを伴うものではないだろう。


 宮崎作品の魅力は、世界の奥行きの深さを実感させてくれるところにある。『耳をすませば』もそのような作品である。しかし、残念ながら、『耳をすませば』という作品は、一種の自己実現の物語、「自分探し」の物語のように読むこともできる。僕が主張したいことは、むしろ、この『耳をすませば』という作品は、そのような「夢を持て」系の話とは、まったく逆のことを主張している、ということである。雫が失いかけて、再発見したもの、それは、世界の奇跡がもたらしたものだ、ということを次回以降、論証していくことにしたい。