『耳をすませば』について(12)



 前回は、場所の問題から出発して、今日のサブカルチャー作品に顕著に見出すことができる三つの立場を概観してみた。そこで、まず、大きな対立線が引かれるのは、新自由主義的立場と互酬的共同体との間の対立である。この対立は、しばしば、再開発の波に脅かされる地元の商店街という対立図式の下で描かれる。そして、もちろん、様々なアニメ作品において、支持されるのは、後者のほう、古き良き地元の商店街のほうなのである。


 いったい、なぜ、商店街のほうが支持されるのか? この点は明確である。それは、商店街と対立する側、つまり、大資本側のほうが、単なる利益追求しか考えていない組織として描かれているからである。これに対して、商店街側のほうには、常に、利益追求を超えた何かが付加されているのだ。それが、互酬性であり、人と人との温かい触れ合い、などと言われているようなものである。


 こうした対立図式について、僕は、基本的に、それは間違ったものだと思っている。事態は、おそらく、もっと複雑なものであるだろう。つまり、コンビニやファーストフード店や大型デパートがわれわれの生活に深く入りこんでいる以上、そうしたものをまったく存在しないかのように描き出すことは、やはり間違っていると言わざるをえない。しかし、そのような対立図式の中で何が問題になっているのか、ということを見ていくことは、極めて重要だろう。


 昨年放送されたアニメ『フタコイ オルタナティブ』が描き出していることは、われわれがひとつの隘路にいる、ということである。世界征服を企む悪の組織との闘い、などという大きな物語にわれわれが巻き込まれていない、ということがそこで(逆説的に)描かれていることなのである。その点で、あらゆる陰謀説というものは、すべて失効せざるをえないだろう。陰謀というものが仮にあったとしても、それは、全世界を包み込むような巨大なものではなく、ある一部で問題になるような小さな裏取引ぐらいのものだろう。


 この点で、『フタコイ』の主人公の恋太郎は、様々な水準で、分裂している。過去に偉大な功績をなした強い父に対する(愛憎相伴う)葛藤という(ありふれた)主題も、そこでは宙吊りにされている。厳しい家の決まり事から抜け出したいと思っているお嬢様を助けるという(これまたありふれた)主題も宙吊りにされている。恋太郎は、一方で、自分が大きな物語の渦中にいることを自覚するが、他方で、そうした物語がすべて虚構であることも自覚しているのである。


 こうした曖昧な立場を描いた点に、『フタコイ』という作品の先鋭なところがある。現在、多くの人が大きな物語を求めているが、しかし、そんなものはどこにもない、という問題である。


 大きな物語とは、全体化を志向する物語だと言っていいだろう。ばらばらに見えたものが、実はすべて繋がっていて、最後にはひとつの大きな全体にまとまる話ということである。ここにおいては、すべての部分的な要素に意味が付加されている。しかし、そのような全体的な超越項が存在しないとすれば、部分に意味が宿ることはなく、そうした部分的なものが持つ価値や方向性といったものは極めて曖昧になってしまうことだろう。


 この点に、セカイ系作品の出てくる余地がある。セカイ系作品が試みていることとは、小さな物語を巨大化することである。局所的な事件を全世界的なものにすること。そこで問題になっていることは、「私」の立ち位置を定めることであり、言ってみれば、無意味な存在だった「私」に意味を付加する試みなのである。


 さて、『耳をすませば』に話を戻してみれば、主人公の雫もまた、このような立ち位置の問題を抱えているのではないか、と考えられる。というのも、単純に考えれば、雫は、自分がいったい何をすればいいのか、ということに悩んでいると言えるからである。しかし、事態は、もう少し、複雑である。問題は、世界をどのように把握するか、ということであり、その世界の中で自分はどのような場所を占めているのか、ということである。


 異世界の問題は、このような立ち位置の問題と密接に関わっている。風景の変化は、それゆえ、同時に、立ち位置の変化でもある。こうした点から、ファンタジーやノスタルジーを見ていこうというのが、僕の提案したいことである。


 場所が変化することによって、それまでその人が立っていた位置が変化する、ということは、様々な作品で描かれていることである。『十二国記』のような作品は、その最たるものだろう。そこでは、端的に、居場所の問題が提起されている。「ここは私のいるべき場所ではない」ということが、そこでは示されているのである。


 『十二国記』という作品が捻りをきかせているのは、主人公の陽子が異世界に行ったとしても、陽子の不満はまったく解消されない、という点にある。この点で導き出される結論は、人が十全に満足できる場所などこの世に存在しないのだから、人はどこかの場所で妥協するしかない、というものだろう。これは、どこかに本当に「私」のいるべき場所があるという考えと同様、極端なものだろう。『十二国記』という作品に見出されるものは、湧き上がるルサンチマン以外の何ものでもないが、おそらく、このルサンチマンがこうした極端な二つの立場を取らせているのだと思われる。


 重要なのは、風景の変化という観点である。スタジオジブリ作品で、この点で重要な問題提起をしているのは、『平成狸合戦ぽんぽこ』だろう。つまり、人間との闘争に敗れ去った狸たちが最後にやったこととは、風景を変化させて、ノスタルジーを喚起することだったのである。


 この課題こそが、まさに、『耳をすませば』という作品で問題になっていることである。つまり、異世界に行くこともなく、(具体的に)風景を変えることもなく、いかにして、現実世界の内にファンタジーをもたらすか、という課題である。


 この課題は、見た目ほど突飛なものではない。というのも、われわれは、例えば、ハレとケというふうに、時間を分節化することによって、風景を変化させようと試みているからである。


 平板化された世界の内に皺曲線を見つけること。これが『耳をすませば』という作品の課題である。それは、例えば、図書カードに書かれた名前の内に見出されるものである。「天沢」という名前の謎は、雫が見出したひとつの皺曲線である。それは、世界の中の隠れたネットワークだと言ってもいいだろう。そうしたネットワークを辿ることによって、雫は、世界の別の側面を見ようとしているのである。


 ここで問題になっていることは、端的に言って、パースペクティヴの変化である。ファンタジーもノスタルジーも、そこで行なわれていることは、パースペクティヴの変化なのである。


 スタジオジブリ作品がやろうとしていること、萌え系作品がやろうとしていること。この二つを改めて捉えなおす作業が必要になってくるだろう。というのも、両作品とも、そこで、われわれが立つべき地面の問題をそこで提起しているからである。次回も、この点に、もう少しこだわってみたい。