中心化された物語から部分的な要素の星座へ



80年代アニメの土壌
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20051023


 実は、数ヶ月前から、このブログにアクセス解析を導入しているのだが、その結果、上記のエントリーが比較的よく見られていることが分かった。Yahoo!などで「80年代アニメ」などと検索すると、上位に出てきてしまうことが原因であるらしい。このエントリーは、僕自身としては、それほど出来のいいものではないと思っているので、少々複雑な心境でいた。そこで、今回、上記のエントリーの内容を補う形で、以下に文章を書いてみたい。




 2005年10月23日のエントリーで僕が問題にしたかったのは、アニメの歴史そのものではなく、対象から距離を取る語り方がいかに形成されたか、ということであった。庵野秀明のような作家が代表的であるが、先行する作品の引用やパロディを通して、自身の作品を作っていくというやり口を問題にしたかったのである。


 そうしたやり口が顕著に見出されるようになったのが、80年前後のマンガやアニメだ、ということである。例えば、鳥山明に(ゴジラガメラウルトラマンといった)特撮作品の強い影響を読み取ることは容易である。『Dr.スランプ アラレちゃん』は、そのような引用とパロディとが上演された舞台劇のような作品だったわけである。


 そして、問題は、80年代にそのような引用とパロディとで構成された作品が出てきた意味合いと、今日そのような作品が出てくる意味合いとは、大きく異なるのではないか、ということである。


 おそらく、こうした観点から、萌えの出現についても問題化することができるだろう。萌え系作品の多くは、その物語や設定を見てみれば、先行する作品のパッチワークによって出来上がっている。つまり、それは、一種のパロディ作品なわけである。


 その種のパロディ作品の起源は、ここでもまた、80年代にまで遡れるが、それは、それまで男の主人公が担っていた役割を女の子が引き受ける、というものである。つまり、『トップをねらえ!』のような作品が典型的であるように、闘う美少女がそこで出てくるようになったのである。


 しかし、美少女から萌えまでには、もう数段階、距離があることだろう。萌えは、パロディという形での物語の再生産を越えたところに位置づけられるように思われる。そこには、言ってみれば、作品の目的の変更のようなものがあるのだ。


 まず、第一段階として、美少女キャラの類型化が上げられる。これは、90年代に、とりわけ、ゲーム作品(いわゆる「ギャルゲー」)を通して、練り上げられたように思えるのだが、そこでの類型化というのは、つまるところ、パロディ化に際して行なわれるようなディフォルメ化と同じ方向性を持つものだろう。つまり、ある特定の状況において、決まった行動をするキャラクターという類型化である。この点で、『魔法先生ネギま!』のような作品は、そのような類型化が今日どこまで細かく行なわれているかということを示す標本のような作品であるだろう。


 ここにおいて、一種の視点の逆転が生じるわけである。つまり、それまで、先行する作品にしばしば見出される表現が「お約束」というふうにして類型化されると、今度は、そのように類型化された特徴が、それ自体、何らかの実体を持つもののように見えてきてしまうわけである(例えば、学園ものの作品にしばしば出てくる委員長が「委員長キャラ」というふうに類型化されると、単なる役職にすぎなかった「委員長」という肩書がそれ自体何か実体を持ったもののように見えてくる)。ここにあるのは、つまるところ、物神化のメカニズムである。こんなふうに、一種、視点の軸足を移動させた結果、萌えというものが生じたように思えるのだ。


 この点で、今日の作品のあり方を典型的に表わしている作品として、アニメ『月詠 -MOON PHASE-』の名前を上げることができるだろう。この作品を理解するためには、この作品の重要なキーワードである「ネコミミ」(もちろん、これは、萌え要素でもある)に注目する必要がある。この作品において、ネコミミという要素は、作品の内容(ストーリー)に対して完全にその外部に位置しているが、しかし、なおかつ、それは、作品の中心を占めているとも言えるのである。


 おそらく、この作品から、ネコミミという要素をすべて除外しても、この作品のストーリーを成り立たせることは可能だろう。しかし、『月詠』という作品からネコミミという要素を抜いてしまえば、後に残るものとは、非常にありきたりな、凡庸な物語であるだろう。この点で、ネコミミは、この作品にあっては、完全に外部にありながら、この作品を成立させている重要な要素になっているのである。


 その点で、『月詠』にとって、ネコミミという要素は過剰なものだ、と言えるだろう。それは、また、この作品が示しているドリフターズのコントへのオマージュについても言えることである。それは、作品の内容にとってはほとんど意味を成さないが、しかし、同時に、このドリフのコントの形式が、われわれの作品の受容形態を規定している、とも言えるのである。つまり、どこからともなく落ちてくるタライという過剰なものは、登場人物にとっては外部的なものであるが、視聴者であるわれわれはそれを見ることができる。この二層構造は、まさに、われわれの萌え要素受容についても言うことができることではないだろうか?


 以上のように考えてくれば、今日のサブカル作品にアプローチするにあたって、作品を中心化するような観念を持ってくるのは間違っていることだろう。その作品がひとつにまとまるような中心点(テーマ)を探し出し、それを提示するというような仕方である。仮に、そのようなものが見つかったとしても、多くの場合、それはフェイクでありうる。先行する作品の「お約束」として引用されている場合が非常に多いわけである。


 この点で、それとは逆に、今日必要となる作品観とは、多様な要素を中心化することなく、分散化するにまかせた作品というものではないだろうか? これは、まさしく、メディアミックスと二次創作という今日の作品の提示のされ方そのものである。一次創作の作品であっても、そこには、二次創作の雰囲気(つまり、ここで示されているのは部分的な物語であり、他に多様な部分的な物語の存在を匂わせる構成になっているということ)が読み取れるのである。


 中心と周縁という対立項がそこに見出されないとすれば、重要になってくるのは、プラス・アルファの要素だと言えるだろう。際限なく付け加えられるプラス・アルファが重要なのである。


 こうした考えを推し進めていけば、キャラクターもまた、細分化していると言わねばならないだろう。つまり、あるキャラクターが中心化しているように見えるのは物神化の効果であって、実のところ、キャラもまた、多様に引き裂かれているのである、と。


 ここで、キャラクターの中にある、対立する部分的な要素というものを想定することができるだろう。僕は以前から考えているのだが、キャラクターに関して重要なのは、ある特定のキャラクターそのものではなく、キャラとキャラとによって作られる星座ではないのか、ということである。もっと言えば、それは、キャラの中にある部分的な要素と他のキャラの中にある部分的な要素によって形作られる星座である。そうした星座の中に位置づけられるときに、初めて、そのキャラクターが、キャラクターとして、独特の魅力をもって姿を表わすのであり、別の状況で、別のキャラとの間に星座が描かれるときには、そのキャラも別の特性を浮かび上がらせるようになるのではないか、と思っているのである。


 こうしたキャラの部分的な要素は、ある作品内という横軸だけでなく、そうした部分的な要素の歴史という縦軸においても、問題になることだろう。そうした多様なネットワークに注意を向けることが、今後、サブカル作品を見ていくときに必要になってくるのではないかと、僕は現在、漠然と思っているのである。この方向性での試みについては、また別の機会に、推し進めてみたいと思う。