『耳をすませば』について(7)



 前回は、再会という主題から『耳をすませば』という作品を見ていった。『耳をすませば』という物語、とりわけ、雫の書いた「耳をすませば」という物語において、重要なテーマになっていたのは、この再会という主題である。


 さて、今日もまた、この再会という主題を取り上げたいのだが、最初に、まず、ひとつのテーゼを提出しておくことにしよう。それは、誰かに恋をするというのはその誰かと再会することだ、というものである。おそらく、この観点が、マンガ版『耳をすませば』の最後に出てくる「幾多の困難を乗りこえて、いつか必ずめぐり逢う恋人たち」というフレーズを読み解くための鍵となることだろう。


 このフレーズにおいてアクセントが置かれるべき部分は、「必ずめぐり逢う」というところである。ここには、ある種、運命論的な臭いのする何かがある。そこに導入されているのは、永遠の恋人、永遠のパートナー、不滅の愛という観念である。


 誰かに恋をしたとき(それが一目惚れであったとしても)、それがその誰かと再会した瞬間であるというテーゼを理解するには、セカイ系作品にしばしば見出される再会の場面に注目すればいいだろう。それは、記憶を失った恋人同士が、お互いのことを忘れているにも関わらず、相手を恋人として認め合う、というシーンである。


 例えば、アニメ『神無月の巫女』のラストシーンなどが、そのようなことを描いた場面であるだろう。記憶を失い、来世に転生した二人の少女(愛し合っていた二人の少女)が、交差点の雑踏の中でお互いを恋人同士と認めるというシーンである。


 また、これは、アニメ『好きなものは好きだからしょうがない』に一貫して見出すことができる主題でもある。この作品は、男性同士の恋愛を扱った、いわゆるボーイズラブものであるが、そこでは、二重人格という設定を使って、非常に上手く、再会のシーンを描いていた。つまり、主人公のカップルのうちの一方は、記憶を失っていて、パートナーのことを忘れてしまっていたわけだが、彼のもうひとつの人格のほうは、パートナーのことをはっきりと覚えていたのである。それゆえ、そこに描かれているのは、初めて会ったにも関わらず、それはすでに再会でもあるという体験である。


 こうした再会の矛盾を、魂の転生という設定の下に描いていたのが、アニメ『ファンタジックチルドレン』という作品である。つまるところ、そこには、二つの存在があるわけだ。ひとつは、根底にある魂の次元、永遠のカップルであり、それは変わることがない。もうひとつは、転生したごとに与えられる名前と肉体であり、それを本質的なものと呼ぶことはできない。というのも、この作品のラストシーンに描かれていたように、まさに、恋人たちは「幾多の困難を乗りこえて」、「必ずめぐり逢う」からである。


 さて、このような観点から、『耳をすませば』を見ていくと、この作品における恋愛の主題が明らかになっていく。アニメ版のラストで聖司が雫に対してプロポーズするシーンは、再会の主題からするならば、問題の本質を少々ぼやけさせるものである(もちろん「結婚してくれ」などという台詞はマンガ版のほうには出てこない)。この出来すぎたカップルのリアリティのなさは、聖司についての性格描写がほとんどなされていないことに原因がある。つまり、聖司は、ほとんど、少女が夢見る理想の男の子という機能的な存在になっているのである。


 このことは、常に聖司が雫の先を行っているということからも理解されることである。聖司は、雫が行こうとする道の先に常にいて、雫のことを待っている。このことは、早朝に、聖司が雫の家の前にいるという最後のシーンで明確に描かれていることである。


 ここで重要なのは、待っていたのは、聖司のほうではなく、実は雫のほうだった、という点である。アニメ版のほうで、雫は、朝目覚めたあと、部屋の窓を開けて、家の外に聖司がいることを発見したわけだが、もし、ここで、雫が窓を開けなかったら、聖司と会うことはできなかっただろう。では、いったい、なぜ、雫は窓を開けたのか? どういう意図の下で窓を開けたのだろうか?


 まさに、ここにこそ、雫の期待が位置づけられる場所がある。彼女は、何かを期待して窓を開け、その場所に聖司がいた、ということである。ここにあるのは、偶然ではなく、必然である。それを「運命」として演出しているのは雫自身に他ならない。


 つまるところ、僕が言いたいのは、何かが見つかるのは何かを探しているときでしかない、ということである。雫は常に何かを探していた。その探求の結果の最初のものが、「天沢聖司」という名前だったわけである。アニメ版の聖司は、雫に自分のことを意識させるために、雫よりも先に本を読んで、図書カードに名前を書いたと言っているが、もし雫が図書カードに書かれた名前に無関心であったなら、いくら聖司が努力しても、それは無駄に終わっていたことだろう。


 この「図書カードの名前」というモチーフにおいて重要なのは、そのような聖司の些細な企みではない。むしろ、雫が「天沢聖司」という名前を発見したことのほうが重要である。自分の借りてきた本を自分よりも先に読んでいる人物。その人物の名前を発見したとき、雫の心の中で、例の音が鳴ったのである。


 ここでの発見というのは、まず、間違いなく、自分と同じような人間で、なおかつ、自分よりも先に行っている人間の発見であるだろう。つまり、ここには、多かれ少なかれ、自己像の投影があるわけである。


 こうした期待は、雫がひとつの危機を迎えているという状況から考えるのであれば、極めて重要である。つまり、彼女は、少々、強迫的になっているわけだが、そんなふうに、自分を自分で急き立てる大きな材料のひとつとして、「天沢聖司」という名前は役に立ったに違いない。加えて、この名前の謎は、退屈な現実生活にファンタジー要素をもたらすものでもあった。しかし、この謎は、外からやってきたわけではなく、雫自身が用意したものなわけである。


 ここで、雫が迎えている危機というものをもっとはっきりさせておくべきだろう。そして、そのことは、夕子と杉村という、二人の周辺人物の役割を大きなものにすることである。


 雫が同級生の杉村から告白されたときのショックとはどのようなものだろうか? そのショックとは、物語を読んでいる人がその物語の中に自分の名前を発見して、実はその物語は自分について書かれた物語だったということを知ったときのショックと同じものであるだろう(まさに、これが、映画『ネバーエンディング・ストーリー』で描かれていたことであるが)。雫にとって、それまで、恋愛というものは、簡単に言ってしまえば、物語の中の話だったわけである。夕子の恋愛話は、雫にとっては、ほとんど関心のない話である。それよりも彼女を惹きつける恋愛話とは、地球屋に置いてあった古い時計の恋愛話、ドワーフの王と妖精の女王との引き裂かれた恋愛話のほうである。


 こんなふうに読者の位置にいた雫を物語の中に引きこんだのが杉村の告白だったわけである。そして、そのショックは、彼女に「現実」を意識させるのに十分なほどだった。「現実」というのは、つまり、雫が生きている時間と場所がしっかりと存在するということ、ある社会の中に雫は生きているということ、つまるところ、彼女は自分の有限性に直面したわけである。こうした「現実」を代表するのが、アニメ版における受験である。


 こんなふうに考えれば、雫にとって物語とは、ひとつの防護壁だったと言うことができるだろう。それは、何かの進行を食い止めるための壁であり、また、それは何かを見ないための壁でもある。そうした壁の崩壊が、雫にとっての最大の危機だったわけである。


 まさに、この点で、聖司は、雫を危機的状況から救い出す王子様の役割を担っている。そして、その役割は、雫が要請したものである。彼女の先を行く人物とは、単に彼女をリードする人物というだけでなく、彼女が直面している危機を先に克服した人物ということでもある。そうした流れから、マンガ版において、聖司は雫に、物語を書くことを勧めたわけである。


 さて、「現実」という言葉を先程から用いているわけだが、ここから、ファンタジー異世界の問題に移行することができるだろう。昨今の様々なサブカルチャー作品に見出すことができる異世界の位置づけの問題。そうした問題を扱うところまでやってきた。異世界の位置づけという問題設定から見るならば、『耳をすませば』という作品は実に特異な輝きを放つ作品となるのである。


 この点に関しては、次回、いろいろな作品を例として取り上げることによって、論じていくことにしたい。