『夜明け前より瑠璃色な』における作画崩壊の問題点

 アニメ『夜明け前より瑠璃色な Crescent Love』は、二つの方向性を持った作品だと言える。簡単に言ってしまえば、それは、シリアスな側面とコミカルな側面の二つであるが、この二つの要素を作品の中でどのように調和させていくのかということは、なかなか難しい課題であるように思われる。


 僕は、原作のゲームについてはまったく知らないので、この作品がそもそもどのような方向性で作られた作品なのかということは分からないが、ネットでの意見をいくつか見てみた範囲では、コミカルな要素の大半は、アニメ化に際して付け加えられた要素らしい。


 同じ作品にシリアスな要素とコミカルな要素が同居するという形式は極めて一般的なものであり、別段、そこには何の問題もないことだろう。コミカルな場面になるとき、キャラクターの頭身が下がるという手法は、非常に多くのマンガやアニメで行なわれていることである。それまで深刻な話をしていた場面から、ちょっと冗談めかした話に移るときに、そうした手法がよく用いられる。『NANA』や『ハチミツとクローバー』といった作品において、こうした手法は、これらの作品が非常にシリアスな物語を展開するがゆえに、欠かせないものとなっていると言えるだろう。


 『夜明け前より瑠璃色な』において、コミカルな要素を取り入れていることに、やや難があるとすれば、それは、まさに、ネットで少し話題になった作画崩壊と密接に関わっているからである。


 『MUSASHI -GUN道-』以後、作画崩壊を始めとしたアニメーションのクオリティの低さを、単に嘆いたり笑ったりすることで済ましてしまうわけにはいかない状況になってきたと言える。『MUSASHI』が注目を浴びたのは、それが非常に質の悪いアニメだったという理由だけでなく、その質の悪さが過剰な意味を持っていたからだと言えるだろう。つまり、制作者の側がおそらく表現したかったこととはまったく別の意味合いを、そうした質の悪さが偶然にもたらすことになったわけである。つまるところ、単に質が悪いと指摘するだけでなく、どんなふうに質が悪いのかと問う必要があるということだ。


 この点で、『夜明け前より瑠璃色な』における恒常的な作画の乱れは(第三話のような特にひどい回は別にして)、この作品のコミカルな側面を強めることに貢献はするだろうが、そのシリアスな側面をほとんど希薄化してしまうことになっているという点で、問題があると思われるのである。フィーナの顔だけに注目してみても、オープニングや第一話のときと比べて、その表情は、回が進むごとに、緊張感がほとんどなくなって、弛緩してしまっていると言える。物語のほうがクライマックスに向かって緊張感を高めている状況においては、なおさら、こうした質の悪さは致命的だと言えるだろう。


 僕が想像するに、この作品の命は、王女という高貴な身分の女性が一般人の男性と恋をする、というところにあるだろう。フィーナ姫が月の王女であるという点で、この作品は、まさに、『竹取物語』のような、特殊な恋愛状況を描いているのだろうが、もしそうであるならば、フィーナが特別な存在であることを強調するような努力は欠かせないことだろう。もしかしたら、アニメは、こうした前提をあえて崩そうとしているのかも知れないが、なぜそれをするのかという意図はよく分からない。


 非常に多くの数のアニメが生産されている現状にあっては、作画崩壊のような事態は、黙認せざるをえない事態とも言えるが、それが作品の根幹を揺るがすほどのものなのか、それとも、作品の根幹にはまったく影響のないものなのか、そうしたことを見極めることによって、それが許容できるものであるか否かが決まってくることだろう。『夜明け前より瑠璃色な』は、第一話冒頭の戦闘シーンが非常にクオリティの高いシーンであるだけに、一貫性のなさという印象を持たざるをえない作品である。