関節の外れた世界、二つのリアリティ



 ここ数ヶ月にわたって、セカイ系と呼ばれる最近のサブカルチャーに特有の物語を考察の対象としてきたわけだが、今回は、このセカイ系の物語が備えているひとつの側面を強調してみたいと思っている。それは「愛するものを守る」という価値観である。


 「愛するものを守る」というテーマは、近年のサブカルチャーの物語において、もはや、王道となっていると言ってもいいだろう。マンガ、アニメ、ライトノベル、ゲームといった比較的オタクが好むようなジャンルだけでなく、映画やドラマや小説といった分野においても、この「愛するものを守る」というテーマが散見されるように思える。


 「愛するものを守る」というテーマは、あらゆるシチュエーションに適応できる幅の広さを持っている。つまり、誰が、どんなときに、誰を、守るのか、といったことは、それぞれのシチュエーションにおいて、まったく異なる。男性が女性を守るとは限らず、女性が男性を守る場合も多く見られる(『灼眼のシャナ』のように)。また、そこで守られるものは、ひとりの人間に限らず、家族であったり、友人たちであったり、国民であったり、人類であったりするだろう(しかし、現在の傾向としては、やはり、個人が個人を守るというのが主流であるだろう)。


 こうした多様性を越えても、なお、「愛するものを守る」という主張には、一定の響きが、一定の価値観が見出される。それは、絶対的に良いことという響き、誰にとっても疑うことのできない絶対の善という響きである。それゆえ、「愛するものを守る」という価値観には、絶対的な正義とでも言うべきものを打ち立てようという隠れた意志を見出すことができるわけだが、今日の作品を見ていくと、この点に関して、いくつかの揺れもまた見出すことができる。つまり、ここにこそ、セカイ系という物語の大きな分岐点が、セカイ系の物語が今後辿ると思われる道の分岐点が見出されるのである。具体的に、いくつかの作品を見ていこう。


 2000年代の作品で、上に述べたようなセカイ系の物語の分裂を体現している作品として極めて重要なのは、『機動戦士ガンダムSEED』とその続編である『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』である。『ガンダムSEED』について考える場合に重要になってくる観点とは、この作品の人気の高さと同時に、その評判の悪さについても考慮に入れることである。


 客観的な数値を出して云々することはできないが、様々な媒体(雑誌やネット)を見て感じられるのは、非常に多くの人が『ガンダムSEED』を見ている(そして、その一部の人が評価している)のと同時に、非常に多くの人がこの作品に対して文句を言っているということである。重要なのは、この作品を熱狂的に受け入れるか、あるいは、徹底的に嫌悪するか、というそうした極端な態度にあるのではなく、何とも落ち着かない微妙な態度、この作品そのものが示しているちぐはぐさに注目することである。


 こうしたことは、セカイ系作品全般に言えることかも知れないが、ある作品を肯定したり、否定したりするその態度を、世代的な問題として語ることは、そこに多くの妥当性を見出すことができるとしても、やはり、そこには還元できないものが多く残るように思える。つまり、『ガンダムSEED』に見出すことができる人気の高さと不満の多さとは、若い世代と古い世代との差、例えば、初代ガンダムを知っているとか知らないとか、そうしたことには還元できないように思えるのである。


 また、こうした評価の分裂は、作品の評価基準が多様である、ということにも還元できないように思える。つまり、ストーリーに重点を置いて見るか、キャラに重点を置いて見るか、演出に重点を置いて見るか、そうした評価基準の水準の違いが、上で述べたような評価の分裂を招いているわけでもないだろう。


 僕の直観は次の点にある。すなわち、この『ガンダムSEED』という作品に魅力があるとすれば、それは、この作品の欠陥そのものに原因があるのではないか、ということである。通常、ある対象について、その対象の長所を指摘するとき、その対象が持っている要素を強調するだろう(「この作品は、ストーリーが素晴らしい、キャラが立っている、演出が斬新だ」等々)。しかし、『ガンダムSEED』においては、何かが決定的に欠けており、その何かが欠けているということが、特殊な魅力を放っているように思えるのである。『ハムレット』の有名な言葉を引けば、この作品は、まさに、「関節が外れている」のである。


 関節の外れている作品の典型は、やはり、『最終兵器彼女』であるだろう。この作品に触れた者すべてがおそらく感じるであろう疑問とは、次のようなものであるだろう。「いったい、なぜ、主人公の彼女が兵器にならなければならないのか?」。この答えは、この作品の中では、まったく示されていない。加えて、いったい、日本がどこと戦争をしているのか、それもはっきりとしない。いったい、なぜ、世界が滅びるのか、それもよくわからない。こうした情報の不足は、ある意味、作品のリアリティを極端に損なうものである。「こんなことはありえないだろう」という疑問が出てくる余地がたくさんあるのだ。しかし、同時に、この欠損は、作品に別種のリアリティをもたらすための重要な要素だとも言えるのである。


 『ガンダムSEED』の中で関節の外れているところをいくつか指摘してみよう。まず、この作品では、やたらに、登場人物たちが「なぜ戦わなければならないのか?」という問いを発する。主人公のキラ・ヤマトは、初めは普通の民間人だったわけだが、戦闘に巻き込まれて、いろいろな経験をへる中で、友人たちと共に軍人になる決意をすることになる。そして、その結果、自分の親友であるアスラン・ザラと戦わなければならない状態に陥り、こうした理不尽さを嘆き悲しむときに、上記のような台詞が出てくるのである。


 しかし、まず疑問に思われるのは、戦争は国家と国家の間で行なわれるものであり、それは、個人と個人との間で行なわれるものではない、ということである。戦争状態において、自分の親友と戦わなければならないということは確かに悲劇的であるが、しかし、もし、そうしたことが嫌なら、軍人であることをやめればいいだろう(あるいは、配置転換など、そうした事態を避けるための方法はいくつか考えられるだろう)。加えて、戦争が国家と国家の間の争いであるならば、「なぜ戦わなければならないのか」という問いは、政治・社会・経済の次元に差し向けられるべきだろう。しかし、そうした下部構造へとまなざしが注がれることは決してなく、問題は、すべて、少数の人間の間の関係に回収されてしまうのである。


 こうした点をもって、この作品を「視野が狭い」作品として否定することは可能であろう。実際にその通りであると言える。しかし、こうした視野の狭さがもたらした欠損が、リアリティのなさと同時に、別種のリアリティをもたらしていることもまた事実ではないだろうか? 政治や経済といった巨大で複雑なシステムよりも、家族や友人や恋人といった身近な人間との関係といったもののほうが、多くの人にとっては、リアリティがあるのではないか? 大状況を小状況の下で語ること、それは、以前、「小状況の拡大」という言葉で問題にしたことであるが、『ガンダムSEED』に見出すことができるのも、このようなセカイ系的な構図である。つまり、そこには、意図的な短絡があるのだ。


 以上のことから、『ガンダムSEED』に対して抱かれる多くの不満は、そのリアリティのなさに起因すると同時に、この作品の人気の高さは、この作品が醸し出すリアリティに起因すると言えるだろう。つまり、ここに見出される差異は、リアリティという言葉が指し示しているものの意味、いったい人は何にリアリティを見出すかというその違いである。前者のリアリティとは、合理性に裏付けされた世界観である。そこで重視されるのは知である。原因と結果の繋がりですべてが説明でき、その間に矛盾のない世界観である(まさに『ファーストガンダム』についてしばしば語られるリアリティがそれである)。これに対して、後者のリアリティは、不合理な世界であり、そこにあるのは非知(あるいは無知)である。表に現われている原因と結果との間に大きな溝があり、どこかに隠れた原因があるのかも知れないが、それが非知のヴェールで覆われているような、そうした世界観である。


 意図的な情報の欠損、原因と結果との間の大きな溝といったものは、『ガンダムSEED』のような大状況を扱った作品だけでなく、小状況だけを描いているような作品にも見出すことができる。それは、つまり、設定の一部をわざと括弧に入れることである。例えば、主人公の男性が多くの女性キャラから慕われるという、しばしば否定的に語られるシチュエーションを取り上げてみよう。こうしたシチュエーションに対する批判は、しばしば、そのリアリティのなさを問題とする。「そんな状況はありえない」ということが、その批判の大きな理由になっているのだ(いったい、冴えない主人公がなぜもてるのか?)。しかし、このリアリティのなさが、作品の中で別種のリアリティを生み出してもいるのである。それは、顔がいいとか、お金を持っているとか、何か才能があるとか、そうした部分的な属性には還元されない「私」の存在の全的な承認こそが愛について問題になっていることだ、という観点である。そこに見出されるのは「愛されたい」という欲望であり、そこから、主人公が直面することになるのは、誰かを愛することの困難さである(この困難さは、しばしば、女性キャラのうち、誰かひとりを選ばなければならないという選択の問題として現われてくる。例えば、アニメ『双恋』では、主人公の男の子が、女の子を誰かひとり選ばなければならない状況になったときに、「何の取り柄もない自分がこんなにもてるなんて、これは誰かの悪意ある呪いのせいだ」というようなことを述べるまでになる)。


 『ガンダムSEED』と『最終兵器彼女』とが情報の欠損を通して描き出そうとしているのは、非人格的な戦争である。それは、自然災害のように、どこからともなく突発的に沸き起こり、多くの人々を巻き込んで、立ち去っていくものである。それは、本質的に、人間の営みとは無関係なものにされていて、人々は、それに対して、部分的な変更は可能でも、基本的には受身的な態度しか取ることができない。このような戦争観は確かにリアリティがない。政治的視点がまったく欠けているからである。しかし、セカイ系の観点からすれば、まさに、そのような戦争こそがリアルなものであり、究極的には、それは、戦争である必要はない。問題となっているのは、マンガ『ドラゴンヘッド』に描かれていたような(何の災害とは言い難い)カタストロフそのものである。


 『ガンダムSEED』においては、地球軍にもザフトにも、それぞれ、その戦争を裏で操る人物(ムルタ・アズラエル理事とパトリック・ザラ議長という二人の原理主義者)がいるではないか、という指摘をする人がいるかも知れない。しかし、セカイ系の観点からすれば、むしろ、こうした悪の黒幕を操っているのが戦争そのものなのである。この戦争のあり方は、浦沢直樹の『MONSTER』に出てくる「名前のない怪物」のあり方に似ている。つまり、その怪物は、自分自身の名前を持たないが、ある特定の誰かの中に入って、その誰かに力を与えることと引き換えに、その人間の名前を持つようになるのである。二人の原理主義者の中に入っているのが戦争という怪物であり、究極的には、戦争すらも怪物の名前のひとつにすぎないのである。


 人間にはまったく太刀打ちのできない壮絶な外的状況。こうした外的な状況に対して、無力な人間には何ができるのか、といったときに出てくる答えが、「愛するものを守る」というものなのである。それゆえ、「愛するものを守る」という価値観は、嵐の海の中を何とか生き延びるためにしがみつく粗末な小船のようなものである。しかし、現在、この価値観は、粗末な小船どころか、どんな嵐が来ても沈むことのない大型客船のようなものになっている。このあたりの状況を、次回、検討してみることにしたい。