なぜこの「私」が闘わなければならないのか?



 前回は、セカイ系作品にしばしば見出すことができる「愛するものを守る」という価値観を問題にしたが、今日もまた、この価値観を問題とすることにしたい。


 「愛するものを守る」という価値観は、『機動戦士ガンダムSEED』が端的に示しているように、「なぜ闘うのか?」という問いに対する答えとしてしばしば提出されている。それゆえ、「愛するものを守る」という価値観を適切に位置づけるためには、この「なぜ闘うのか?」という問いにも注目すべきだろう。


 例として、2004年に公開された特撮映画『CASSHERN』を取り上げてみよう。この作品が終始問い続けていたことも「なぜ闘うのか?」ということである。「なぜ人は争わなければならないのか?」という問いである。ちょっとここで、次のように問うてみよう。いったい、この問いは、どこから発せられた問いなのか、どのようなまなざしの下で発せられた問いなのか、と。


 「なぜ人は争わなければならないのか?」という問いは、非常に一般的な問いであり、抽象的な問いである。それは、具体的に限定された時代や地域や個人には還元されない問いである。つまり、ひとつのシステムとしては、あるいは、ひとりの人間の行動原理としては、戦争や争いといったものを問題にしないという形で提出された問いである。だが、それに対して、作品で描かれているのは、非常に具体的な闘いであり、その具体的な闘いの理由は明白である。簡単にまとめてしまえば、アンドロイドの側は自由を獲得するために人類と争っているのであり、キャシャーンの側は人類を守るためにアンドロイドたちと闘っているのである。


 しかし、ここにおいて、ある種の理不尽さが立ち現われる瞬間があるのだ。頭の中では、現在起こっていることの理由をすべて理解していたとしても、それでも理解できないことがたったひとつだけ残るのである。それは、「なぜ、この私が、そうした役目を担って、闘わなければならないのか」という問いである。言い換えれば、それは、「システム上、闘いという事態が現に起こっているということは非常によく理解できる。そして、そこで、この私が、一定の役割を引き受けなければならない(あるいは、自分の意志の下、そうすることを決意した)ということも理解できる。しかし、なぜ、いま、このときに、この私が、それをやらなければならないのか?」という問いである。


 このような問いの観点から見ていくなら、「なぜ闘うのか?」という問いは、政治・経済レベルから何らかの説明がなされたとしても、それで満足するものではないだろうし、また、個人レベルから説明されたとしても、つまり、「私は今まで、これこれこういう人生を歩んできて、これこれこういう行動原理を持っていて、以上のことから、このような振る舞いをなした」という説明を自分自身にしたとしても、そのことによって満足されるものではないだろう。


 近年のサブカルチャー作品にしばしば見出すことのできる「なぜ闘うのか?」という問いは、数年前に問題になった「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに非常によく似ている。とある中学生が発したとされるこの問いは、おそらく、社会システム上の説明によっても、その問いを発した中学生の個人的なレベルでの説明によっても、満足されるものではないだろう。つまり、人間の社会の成り立ちというところから説明をしても、あるいは、その中学生個人の感情に訴えかけても(「もし君の愛する人が誰かに殺されたとき…云々」という説明)、満足されないように思われるのである。


 いったい、なぜ満足されないのか? それは、問いのレベルの位相が答えのレベルの位相と異なるように思われるからである。「なぜ闘わなければならないのか」にしろ「なぜ人を殺してはいけないのか」にしろ、これらの問いは、その問いを発した人の立場から発せられたものではないだろう(その中学生の場合、誰かを是が非でも殺したい切羽詰った状況で、その問いを発したのではないだろう)。この問いには、ある種、形而上学的な響きがある。それは、言ってみれば、主体と世界との間の応答であり、そこで問われていることとは、なぜこの「世界」がこの「私」と関係を持っているのか、ということではないだろうか?


 ここに前提とされている考えとは、世界の複数性と「私」の複数性である。この世界の他に別の世界がいくつもあり、場合によっては、この「私」は別の世界と関係を持っていたのではないか。あるいは、現在、この「私」は、この世界の中で一定の場所を占めているが、もしかしたら、この「私」とは別の「私」がこの場所を占めていたかも知れない、というような考えである。


 世界の複数性と「私」の複数性とは、多くのサブカルチャー作品で、様々な形を取って現われている。異世界、多重人格、記憶の想起と忘却、魂の転生などである。こうした世界観にあっては、世界の複数性と「私」の複数性とは、当然の前提となっているのである。いったい、なぜだろうか?


 まず言えることは、こうした世界観にわれわれがリアリティを感じるとしても、そこで直接的に描かれている世界観をわれわれがそのまま信じているわけではない、ということである。つまり、この世界ではない異世界がどこかにあると信じているわけではないだろうし、魂の転生というものをそのまま信じてるわけでもないだろう。仮にそれを信じてる人がいるとしても、重要なのは、それを信じるまでに至ったプロセスであり、その原因のほうである。つまり、重要なのは、この世界におけるこの「私」の生というものを絶対的なものとは見なさないまなざしが存在するということ、「私」の生というものを数多くある生のひとつと見なす相対的な視点がそこにあるということである。


 しかし、だからと言って、「私」の生がまったくの無価値だ、というわけではないだろう。逆説的にも、そこに見出されるのは、この世界がこの「私」と出会ったその一回性の重要さである。つまり、「多様な世界と多様な私があるにも関わらず、実際のところ、その中で実現しているのは、この世界とこの私との出会いである。これは非常に驚くべきことであり、そこには何らかの意味があるのではないか」というわけである。


 つまるところ、「なぜ闘わなければならないのか」にしろ「なぜ人を殺してはいけないのか」にしろ、それらの問いは、いったんは、個人の生を大きく離れて、抽象的な次元に向かうが、そこから翻って、またその個人の生に帰ってくるのである。つまり、「なぜこの世界とこの私とが出会わなければならなかったのか、その必然的な理由を、言い換えれば、私の使命を教えてほしい」ということである。ここから、上記の二つの問いを言い直してみれば、次のようになるだろう。「なぜ闘わなければならないのか」という問いの意味とは、「私は、自分がどう思おうが、必然的に闘わなければならないことになっている。いったい、そこで、私は、どのような使命を担わされているのか、それを教えてほしい」ということであり、「なぜ人を殺してはいけないのか」は、「私は、自分の意志とは無関係に、絶対に人を殺してはならないことになっている。いったい、そこで、私は何をなすべきなのか、それを教えてほしい」ということである。


 そして、この地点で立ち現われてくる回答が、「愛するものを守る」なのである。この点で、この「愛するものを守る」という価値観は、非常に射程の広い回答だと言えるだろう。なぜなら、それは、あらゆる問いに対して適用可能な回答だからである。「なぜ闘わなければならないのか」→「それは愛するものを守るためである」。「なぜ人を殺してはいけないのか」→「それは愛するものを守るためである(人を殺した結果、愛するものを守れなくなる事態が生じるという、その事態を避けるためである)」。


 以上のことから、様々な問いの形で問われていることを次のようにまとめることができるだろう。すなわち、それは、「なぜ私は生きているのか」ということである。「いったい、なぜ、私は生きているのか。なぜ、私は、死ぬことなく、生きているのか」。この問いは、それが個人的な水準には回収されないところに特徴がある。「私は、これこれの理由で、生きていたい」という個人の欲望は、そこにおいては、欠如しているのである。


 こうした観点から、『ガンダムSEED』を見ていくなら、そこで問題となっていることは、究極的には、戦争ではない、ということが明かになるだろう。前回問題にしたように、そこで戦争が描かれているとしても、それは、政治や経済とは無関係の戦争であり(たとえ政治的・経済的な要因が作品の中で描かれていても)、それは、言ってみれば、自然災害のような戦争である。そうした戦争は、今日の話の文脈からすれば、世界そのものの現前と考えられる。世界がこの「私」に強いてくるものが、この場合では、戦争ということである。それゆえ、『ガンダムSEED』の登場人物たちが問いを差し向けているのは、言ってみれば、世界そのものに向かってということになるだろう。


 だが、いったい、「愛するものを守る」という答えは、どこから返ってくるのだろうか? 世界そのものから返ってくるのだろうか? ここにおいて、僕が指摘したいのが、「愛するものを守る」という価値観の密輸入の事実である。あまりにも多くの作品に、この価値観が見出されることからも分かるように、この価値観には、ある種の安っぽさが附随している。つまり、これは、大量生産された価値観であり、ここまでこの価値観が広がったのは、薄利多売の結果だと言えるのである。しかし、いったい、誰がこの価値観を売りさばき、誰がこの価値観を買い求めているのか、ということはっきりしない。少なくとも、われわれの多くがこの価値観を求めていることだけは確かであるだろう。というのも、この価値観は、「私はなぜ生きているのか」という理由を端的に与えるもの、「私」の価値(必要性)を端的に指し示すものだからである。


 以上が「愛するものを守る」という価値観の概要であるが、こうした価値観が描かれている個々の作品を見ていくと、上記のようなまとめには回収されない多様な要素が見出される。例えば、『ガンダムSEED』においても、最終的にこの価値観を打ち出すように作品が構成されているわけでは決してない。そこにおいて、作品は、一種の分裂状態にあると言える。様々な葛藤がそこには見出されるのである。次回は、『ガンダムSEED』を中心に、こうした葛藤を拾い上げていくことにしたい。