永遠なものから有限なものへ



 ここ数回、80年代のサブカルチャー作品と今日のサブカルチャー作品との関係を見てきた。今日のサブカルチャー作品を考えるにあたって、80年代の作品と同時に考えることが極めて有効だと思ったわけである。今日も、この作業を推し進めてみよう。


 『ビューティフル・ドリーマー』を取り上げた前々回の最後に、「現実」に対立する言葉として、三つのものを上げた。理想と虚構と夢である。『ビューティフル・ドリーマー』は、まさしく、現実とそれに対立するこれら三つの言葉との関係を扱った作品だと言える。しかし、その扱い方は複雑である。一見すると、それは、あらゆる虚構を否定し、現実の価値を肯定しているように見える。しかし、単純に、そのように図式的に整理することはできないということを、前々回は述べたわけである。


 いったい、どのような点が複雑なのか? まず、第一に重要になってくるのは、リアリティの所在である。例えば、模造品について考えてみることにしよう。ある原点にある何かから、それとそっくり同じものが作られるとする。このとき、そこには、本物と偽物の二つがあるだろう。しかし、この本物に対しても、偽物に対しても、同じ価値をそこに見出すとき、そこにある「本物/偽物」という階層秩序は絶対なものだろうか? あるいは、本物よりも偽物のほうに、より強く、リアリティを感じる場合、つまり、変な言い方になるが、偽物のほうが本物らしく見える場合、そのとき、本物と偽物との間の階層秩序を、いったい、何が保証しているのだろうか?


 上の例においては、マスターとコピーとの間の区別が明確である。それは、外的な区分、時間的な区分である(マスターがあり、それが次にコピーされた)。しかし、たとえ、このような外的な区分が明確ではあっても、リアリティという点に関して言えば、そこで前提となっている階層秩序が揺らぐ場合がありうる。映画の『攻殻機動隊』に出てくる模造記憶の話を取り上げてみよう。そこに登場するひとりの登場人物は、偽の記憶を植えつけられていた。彼は、家族の姿が写っている一枚の写真を持っていたが、そこに写っている家族は、彼の本当の家族ではなく、その家族が自分の本当の家族であるという偽の記憶を植えつけられていただけだったのである。


 このとき、外面的な「本物/偽物」という階層秩序においては、「彼は間違った記憶を植えつけられていた」ということで終わりであるだろう。しかし、仮に、自分がそのような立場に置かれたとすれば、そのような外面的な説明で納得がいくものだろうか? 彼は、その写真にリアリティを感じていたはずである。そして、そのリアリティを保証していたものが、彼の模造記憶だったわけである。もし、彼が、何らかの形で、昔の記憶を思い出せば、そこには、再び、本物と偽物との間の明確な区分が出来上がるかも知れないが、いったい、どうして、昔の記憶が本物の記憶で、植えつけられた記憶が偽の記憶なのか、そうしたことを外的証拠によってではなく、内的な実感として得ることは、ほとんど不可能のように思える。


 ここにおいて、われわれが何かにリアリティを感じるとき、その根拠となるものが、いかに、曖昧なものであるか、ということが理解されるだろう。つまり、それは、完全に外的なものでもなく、完全に内的なものでもない。内的な確信というものも曖昧であれば、外的な証拠というものもまた絶対的なものではない。外的な支えと内的な実感とのバランスが、ひとつのリアリティを作り出していると言えるのではないだろうか?


 しかし、この点は、今日のサブカルチャー作品を見ていくと、そう簡単にまとめられるものではない。そこに見出されるものとは、言ってみれば、過剰な懐疑とナイーブな信仰との同居ではないだろうか? ひとつの例として、アニメ『ファンタジックチルドレン』を取り上げてみよう。


 この作品が提示している価値観は、前回も少し述べたが、仮象の重視である。ストーリーを少し述べてみよう。この作品の中心にいるのは、ギリシアと呼ばれる惑星の王女ティナである。彼女は、政治的な闘争に巻き込まれた結果、魂を別の肉体に転生させる「転生装置」によって、地球に飛ばされてしまう。彼女を追って七人の科学者たちもまた地球に転生される。魂が別の肉体に転生されてしまうと、以前の肉体のときの記憶を失ってしまうため、ティナは、ギリシアのときの記憶を失ったまま、地球で転生を何回も続ける。しかし、「ベフォールの子供たち」と呼ばれる七人の科学者たちは、肉体を移っても以前の記憶を同一のままに保つ機械を持っているために、初めて肉体を転生してから五百年の月日が経っても、それまでの記憶が保持されている。ようやくのことで、ベフォールの子供たちは、ティナの魂が転生した人物であるヘルガという少女を見つけ出し、その結果、ヘルガは昔の記憶を思い出すことになる、というのが大体のあらすじである。


 さて、重要になってくるのは、ここにおける階層秩序、本物と偽物という区分である。王女ティナもベフォールの子供たちも、元を辿れば、ギリシアという惑星が故郷であり、地球人としての肉体は仮のものと言えるだろう。従って、彼らの旅の目的は、出発点に戻ること、王女ティナが元の肉体に戻ることだと言える。


 しかし、ここにおいて、いくつかの揺れもまた、見出せるわけである。まず、ベフォールの子供たちのうちのひとりは、転生の旅の途中で、脱落してしまう。つまり、ある特定の人間の生に留まろうとするのである。彼らは、単に、魂が永遠であるという意味だけで不死であるわけでなく、一貫した同一の記憶を持っているという点においても、不死である。肉体は変化しても、精神の水準において、記憶の水準において、同一性を保っていることができる。にも関わらず、彼らのうちのひとりは、あえてこの不死性を捨て去ろうとするのである(そして、この誘惑に、他のメンバーたちも強く引かれる)。いったい、なぜだろうか?


 ベフォールの子供たちの揺れの根にあるものは、まさに、特定の人間関係であると言えるだろう。魂は不死であり、転生を繰り返すことによって永遠に生きられるかも知れないが、特定の他者と築く人間関係は一回限りのものである。最初に脱落したベフォールの子供が執着したものは、まさに、その時代における家族関係、そこでの一回限りの生である。そこでの生は有限なものである。そして、そのことは、彼が同じ記憶を持ちながら転生していったとしても変わることはないだろう。しかし、その時間に留まることは、逆に、その一定の時間を掛け替えのないものにするという点で、その生を永遠のものにすることに繋がるだろう。この点は、まさに、前回問題にした「同じ時を過ごすこと」と同じ問題設定である。つまり、永遠という時間の水準で見たときに失われてしまうのは、ある種の質としての時間、有限な時間である。


 この点にこそ、今日的な物語の重点がある。つまり、重要なのは、ある種の特殊性、有限性なのである。一と多という対立軸においては、力点が置かれているのは、常に一のほうである。何かたったひとつのもの、唯一のものが絶対的な価値を持っているのである。それは、『ファンタジックチルドレン』においては、関係性の永遠という形で現われている。ここが非常に複雑なところである。この作品は、一見すると、上記したように、永遠なものよりも有限なものに価値を置いているように見える。しかし、そこには、この有限なるものが永遠化される瞬間が発見されるわけである。それは、前世でカップルだった者たちが来世においてもまたカップルになるという形で示されている(最後にヘルガは、彼女がティナだったときに愛していた人物の転生した姿と再会することになる)。転生によって記憶が失われていたとしても、来世における関係には前世における関係が映し出されているのである。


 こんなふうに考えてみれば、『ファンタジックチルドレン』においては、まだ、本物/偽物の階層秩序が厳然とそこにある、ということは言えそうである。つまり、個々の多様な関係性があったとしても、そうした多様性には回収されない真の関係性が存在するという考え方である。だが、この永遠性を云々するためには、超越的な視点が必要だろう。外側から全体を眺めたときに、初めて、それが真の関係であるか偽の関係であるかを言うことができるはずではないだろうか? いったい、『ファンタジックチルドレン』は、どのような立場から、この永遠性を措定しているのだろうか?


 『ファンタジックチルドレン』がやっていることは、この永遠性を措定しているわけではなく、単にほのめかしているだけであるだろう。ここでの問題をまとめてみると、次のようになる。有限なものが永遠なものへと昇華されているのか、それとも、永遠なものが有限なものの内に反復されているのか? このどちらかを決定する決め手を、この作品に見出すことはできないだろうし、ある意味、その効果という点では、どちらでも同じことであるだろう。つまり、ある特殊で有限なものが、永遠普遍なものとして、そこに現われているということである。そして、こうした状態を誤った認識、仮象だとして退けることなく、そこに立ち現われたリアリティを肯定しようというのがセカイ系の立場のように思える。


 これは、見方によっては、極めて単純な所作である。ドラマ『シブヤフィフティーン』の最後に描かれていたような、極めてナイーブな所作である。しかし、ここで立ち現われているリアリティを単に誤った認識だと言って切って捨てることができるためには、内と外との間に明確な線引きが施されていなければならない。理想と現実、虚構と現実、夢と現実との間に、明確な区別がなければならないのである。おそらく、そうした明確な線引きができないということが、今日の状況なのであり、だからこそ、セカイ系のような物語が出現する必然性があったのだろう。


 問題とすべきなのは、セカイ系作品が示しているような距離感である。アニメ『耳をすませば』の中のワンシーン、主人公の雫が夢想する異世界のシーンで、「遠くのものが大きく見えて、近くのものが小さく見える」という場面があったが、まさに、このような倒錯した遠近感が重要である。あるいは、それは、全面鏡貼りの迷路のような遠近感であると言えばいいだろうか。ともかくも、セカイ系の作品においては、通常の遠近法が崩れ去っており、遠くにあったものが近くに見え、近くにあったものが遠くにあった瞬間に、ひとつのリアリティが生まれると言えるのである。


 内と外とが明確に分かれており、階層秩序がしっかりしていれば、例えば、「外に出る」という言説が重みを持ってくるだろう。「井の中の蛙であってはいけない」などという言い方でほのめかされている外である。しかし、情報が多様化し、それらの情報が均質化している現在にあっては、どこからどこまでが内側であって、どこからどこまでが外側なのか、そこがはっきりとはしないのである。それゆえ、自らの立ち位置を見定めることもまた困難である。こうした困難さを回避する手段が一連のセカイ系の物語のように思えてならないのである。


 さて、次回もまた、80年代のアニメと今日のアニメとを往還してみることにしたい。