前々回から、80年代のアニメとメタレベルというテーマで話を進めているわけだが、ここで、改めて、なぜこうしたことを問題とするのか、ということを明確にしてみよう。
ここ最近、僕がずっと問題としていることは、セカイ系と呼ばれる一群の作品に関してである。しかし、もっと広い視点に立てば、セカイ系と呼ばれるものは、アニメを始めとする今日のサブカルチャーの物語の傾向であり、われわれの人生にひとつのまとまりを与える物語の傾向であるだろう。物語のあり方が変化し、そのように変化した新しい物語がひとつのリアリティを持っている。そのリアリティが意味するところと、それが今後辿ろうとする道とをここで見極めようとしているのである。
そのような今日的な物語の傾向と80年代のサブカルチャー作品とが密接な関係を持っているのではないか、というのが、ここでの僕の直観である。メルクマールとなるのは『新世紀エヴァンゲリオン』という作品であり、様々な場所で『エヴァンゲリオン』以前以後ということが語られている。そして、この『エヴァ』という作品が80年代のサブカルチャーの流れの果てにあるとすれば、いったい、80年代のサブカルチャーとは何だったのか、という問いを立てることは非常に重要であるだろう。
加えて、80年代の作品を見ていくことの重要性は次のようなところにある。すなわち、80年代の作品は、今日的な物語が生じるためのひとつの源泉ではあるが、それは、たったひとつの源泉であるだけでなく、多様な源泉であるはずだ、というものである。言い換えれば、ありうべき未来の作品というものを考えていくために、大いに参考になるのが80年代の作品というわけである。そこには、今日的な物語において、あまり花開かなかった要素がたくさん散見されることだろう。そうした要素を指摘することによって、今日的な物語の多様な可能性を浮かび上がらそう、というのが、ここでの試みのひとつである。
今日的な物語は、それが新しいという点だけでもって、その価値を評価すべきではないだろう。そこには、そうした物語を容認すべきか拒絶すべきか、という問題もある。僕の立場は、この点においては、かなり曖昧なものである。ある点においては、そうした一連の新しい物語を評価しているが、しかし、他方においては、そうした物語がひとつの型に嵌め込まれていくのを危惧しているところもある。80年代のサブカルチャーの多様な源泉を見ていくことは、そうした一定の作品の型に揺さぶりをかけることに繋がっていくことだろう。
さて、セカイ系と呼ばれる作品と80年代の作品との共通点は、いったい、どこに見出せるだろうか? こうしたことを考えるためには、典型的なセカイ系作品を作り出している新海誠の作品を見ていくのが一番いいだろう。
まず、『ほしのこえ』を取り上げてみよう。この作品は、以前にも述べたが、80年代の作品である『トップをねらえ!』の強い影響の下に作られた作品である。しかし、そこでのアクセントやニュアンスは、大きく異なっている。この点で、『ほしのこえ』は、『トップ』の中に眠っていた、『トップ』という作品それ自体も気づいてはいなかったひとつの要素を抜き出して増幅させた作品だと言えるだろう。
具体的に作品を見ていこう。『ほしのこえ』で重要なモチーフになっているのは、「愛する人と同じ時を過ごせない」というシチュエーションである。このことは、単に、愛する二人が、何光年も離れた場所にいる、という距離について言っているだけではない。重要なのは、距離という空間的問題設定ではなく、「同じ時を過ごせない」という時間的問題設定である。二人の間には、数光年という、天文学的な距離がある。しかし、この作品においては、そうした距離が時間に変換されている。そうした変換の役目を果たしているのが、携帯電話のメールである。
携帯電話のメールという今日的なテクノロジーが『ほしのこえ』でどのように使われているかということをちょっと考えてみよう。われわれが、通常、そのようなテクノロジーをどのように使っているのかと言えば、それは、まさに、二人の距離を忘れさせるため、「同じ時を過ごしている」ということを実感するためであるだろう。携帯のメールをどのように使うか、という使い方は人それぞれだろうが、大した用事でもないときにメールを使う場合、そこで重要になってくるのは、(メールの本文よりも)送信と返信との間の時間の短さではないだろうか? ここに見出すことができるのは、『ほしのこえ』のラストに出てくる「僕は、私は、ここにいるよ」のまさに実演である。送信と返信との間の距離が短ければ短いほど、そこには、「同じ時を過ごしている」という同時性が実感されるわけである。
こうした観点から見ていくと、『ほしのこえ』に見出すことができるのは、逆説的ながら、送信と返信との間の間隔の長さである。数日単位ではなく、数年単位でメールがやってくるというその状況は、作品で描かれている二人の距離を空間から時間へと移すことになるだろう。つまり、同じ時間を過ごしていることを確認する作業であるはずのメールのやり取りが、ここでは、同じ時間を過ごせないことの証左となっているのである。
さて、ここで、『トップをねらえ!』のほうに目をやってみよう。この作品にも「同じ時を過ごすことができない」というモチーフが散見される。タカヤ・ノリコとその父との間の距離、アマノ・カズミとオオタコーチとの間の距離、ノリコとその友人のキミコとの間の距離がそれである。光の速さで進むと時間の流れ方が遅くなってくるという相対性理論のひとつのモチーフを極限まで推し進めることによって導き出されたものとは、空間を時間化すること、あるいは、時間を空間化することである。いや、むしろ、『ほしのこえ』や『トップ』に見出すことができるものとは、距離という観念の希薄さではないだろうか? 光の速さで進むことができるために(あるいは、空間をワープすることができるために)、数光年という距離は、もはや、壮絶な距離として感じられることがない。移動は一瞬のうちに済んでしまう。しかし、そこで失われてしまうものがある。それは、誰かと同じ時間を共有するということ、量としての時間ではなく、ある質としての時間、それが失われてしまうのである。
この質としての時間という観点がセカイ系を彩る重要なモチーフであり、そうした時間こそが絶対的に失われたものという喪失感を生み出す源となっているのである(こうした喪失感は、「あの青春時代は二度と戻ってこない」というふうにノスタルジックに回顧されるときに見出されるものでもあるが、より本質的には、自分が過去体験することができなかった時間、存在したかも知れないのに実際は存在しなかった時間として体験されることだろう)。
このような時間論的な枠組で問題になっていることは、一種の存在論的な問題設定でもある。ここで扱うべき存在とは、単純に、「いる/いない」というひとつのレベルだけで捉えられるものではない。そこには、少なくとも、二つの階層が見出せるのである。こうした存在の問題を考えるのに打ってつけの作品は、現在テレビで放送されている『灼眼のシャナ』である。
この作品で非常に興味深いのは、その存在の位置づけである。この作品世界においては、簡単に言って、二つの存在が、それゆえ、二つの生と死がある。ひとつは、単なる生と死の軸、「いる」と「いない」というレベルでの存在である。ある人間が生きている場合、その人はそこにおり、その人が死んだ場合、その人はそこにいない、というレベルでの「いる/いない」の話である。もうひとつの存在のレベルとは、そうした「いる/いない」を基礎づけている場所それ自体がなくなる場合がありうる、という意味での存在である(『シャナ』においては、こちらのほうを「存在」と呼んでいる)。つまり、このレベルでの存在がなくなると、ある人間が存在していたことそれ自体が抹消されることになる(その人は初めから存在していなかったことになる)のである。
いったい、こうした存在の階層づけは何を意味しているのだろうか? なぜ、こうした区分けに、われわれはリアリティを感じるのだろうか? そうしたものにわれわれがリアリティを感じるのは、われわれの存在が極めてはかないものであるからだろう。もし、自分が死んだとしても、その自分のことを覚えていてくれる人がいれば、「自分は過去に存在した」というその第二の存在まではなくなることはないだろう。しかし、その自分のことを覚えていてくれた人がすべて死んでしまったとすれば、そのとき自分は存在するのだろうか? もし、自分が存在したことを示す証拠物件がすべてなくなったとしたら、そのとき、この「私」は、存在していなかった、ということになるのではないだろうか?
なぜ、こんなふうに、死後の生について思いを巡らす必要性があるのだろうか? それは、まさに、そうした存在の問題が、現在生きているこの生に跳ね返ってくるからであろう。この「私」が存在する絶対的な根拠がないとすれば、この「私」とはいったい何なのか? 亡霊なのだろうか? そうした問いが、まさに、『シャナ』においては、存在を食われた人間(=トーチ)という姿を取って現われてきているのである。
「私」は本当に存在するのだろうか? そうした不安に対処するために行なわれるのが、まさに、上に述べたようなメールによる存在の確認、「同じ時を過ごしている」ことの確認であるだろう。そして、このとき、自分の存在を請け合ってくれる人間が単なるひとりの人間である限りにおいて、重要になってくるのが、一連のセカイ系作品に見出すことができる仮象の重視という態度である。
上に述べたような流れを辿るセカイ系における存在の(再)確認とは、自分の存在を超えた、何か巨大なものに自分を同化させるという道を経るのではなく、手近にある刹那的なものに、自分の全存在の重心を傾けることだと言えるだろう。つまり、ここでアクセントが置かれているものとは、本質的なもの、普遍的なもの、全体的なものではなく、偶有的なもの、特殊なもの、部分的なものという仮象なのである。
『ファンタジックチルドレン』や『シブヤフィフティーン』という近年の作品にもそうした仮象の重視という特徴を見出すことができるが、その最大なものは、やはり、『最終兵器彼女』であるだろう。もはやその原形が見失われてしまった彼女を主人公の記憶の中から再生するという、そのラストシーンに見出すことができるものとは、仮象の中の仮象と言うべきもの、主人公の頭の中だけにしかない想像的なものである。しかし、この想像的なものは、まったくの無から生じたものではないだろう。それは少なくとも記憶の産物なわけである。この記憶の背後にこそ、存在の根が位置づけられる場所があるのであり、その点でだけ、仮象がリアリティを持っていると言うことができるだろう。
以上のような仮象の発生とメタレベルの問題とがここでは密接に関わっているように思えるわけである。何か外的な全体(例えば自然とか宇宙)の価値が信じられていたときには、そうした仮象は単に無価値なものでしかなかったことだろう。しかし、そうした階層秩序が崩れ去れ、誰もがいつでもメタレベルに立てるというふうになったときに、逆説的なことながら、仮象が価値を持つようになったと考えられるのである(こうした事態を端的に示している例として最も分かりやすいのは、2ちゃんねるのような匿名掲示板であるだろう)。
次回も、同様の観点から、80年代の作品と今日のセカイ系作品との繋がりを見ていくことにしたい。