努力、友情、勝利



 前回からかなり時間が経ってしまったが、今日から本格的に、「カーニヴァル化する社会」と現代アニメとの関係を問題にすることにしたい。しかし、「関係を問題にする」とは言っても、鈴木謙介の本を細かく取り上げるつもりはない。むしろ、ここでやりたいのは、アニメ論であり、個々のアニメ作品と関わる限りで、鈴木謙介の本を取り上げることにしたい。


 さて、「ハイ・テンションな自己啓発」と「宿命論」という対概念を鈴木の本を読んで知ったとき、まず連想したのが『NARUTO』である。この作品を分析するにあたって、この二つの対概念は、非常に有効だと思われる。


 前回も述べたように、この対概念のうちで、アクセントが置かれているのは、宿命論のほうである。「もうすべては決定してしまっている。変えられるところなど何もない」。この諦めは、いったい、何を意味しているのだろうか?


 『NARUTO』という作品を見ていて、気づかされるのは、この作品は競争を描いている、ということである。競争、それは、このマンガが連載されている「週刊少年ジャンプ」のメインテーマとも言えるものである。


 競争において問題となっていること、それは、勝つか負けるか、ということである。加えて、問題なのは、そのような勝敗には、人間の実存やアイデンティティに関わるような価値が常に付きまとっているということである。勝つことと負けること、それは、ある一定の限定された時空間だけでの出来事ではない。もちろん、そのように限定された勝負もあるだろうが、そうした限定を超えて、一定の間、持続する勝負の結果というものもあるだろう。


 ここで視野の狭さというものを考えてみるのもいいかも知れない。往々にして、こんなふうに勝敗の決まる競争を描いた作品においては、そうした勝敗を決定する価値基準以外の価値基準が描かれることはない。『NARUTO』の場合だったら、それは端的に言って、力の強さ/弱さである。それゆえ、こうした作品において、負けた者に注がれるまなざしは、非常に残酷なものになっている。負けた者に対して、「君は負けたけれども、まあ、努力はしたんだから、それで、いいんじゃない?」などと言うことは、極めて残酷なことではないだろうか?


 「週刊少年ジャンプ」の作品の場合、こうした熾烈な競争というものを緩和させる装置が常に機能している。それは、いわゆる「友情」という装置である。「努力・友情・勝利」というジャンプのモットーにおいて、「友情」というファクターは、競争という側面を緩和させる役割を果たしている。もし、友情という側面が欠けていたら、ということを考えてみよう。そこにあるのは、ただ、努力とその結果導き出される勝利のみである。そうした殺伐とした光景を隠蔽する役割を「友情」という装置は担っていると言える。


 しかし、実際のところ、そこにあるのは、殺伐とした光景だけだ。これは、時代的な問題かも知れないし、もちろん、個々の作品によって、そのウェイトは大きく変わることだろう。しかし、努力→勝利という物語が、われわれに大きな快楽を与えてくれるのは、間違いないだろう。友情という要素は、そうした物語にまぶされたちょっとしたスパイスぐらいのものだろう。気持ち良く勝つということがここで目指されていることである。他人を蹴落とした上での勝利という側面だけがピックアップされると、それは後味の悪いものになるわけである。


 現在のサブカル作品を概観したとき、あるひとつの目標、完全な勝利を目指して、登場人物たちが切磋琢磨する、というのではない作品というのも、数多く見出せる。つまり、あるひとつの価値基準、あるひとつの競争内での勝利というものを重視するのではなく、多様な価値観、多様な競争というものに価値を置く作品である。言い換えれば、それは、ある競争ゲームから降りることを称揚する作品である。しかしながら、そうした称揚が上手くいっている作品というのを、僕は、残念ながら、まだ見たことがない。往々にして、そのような作品では、あるひとつの価値基準ではない別の価値基準というものが、その外にあるという形で暗示されるだけであって、作品内に多様な価値観を導入するという試みには失敗している。その作品で中心的に示されている価値基準の相対化には失敗しているのである。


 このような葛藤を描いた作品として注目に値するのが『プラネテス』である。この作品の主人公ハチマキを悩ましているのは、理想と現実とのギャップである。彼の夢は、自分の宇宙船を持つことである。しかし、それは遠い夢、ほとんど実現不可能な夢である。彼の職業とは、宇宙のゴミを拾うデブリ屋である。ハチマキは、この仕事に誇りを持っている。同僚との関係も良好である。恋人も出来た。こんなふうに生活が安定し出したとき、彼の中の内なる声が彼に呼びかけるわけである。「お前はこのままでいいのか」と。かくして、ハチマキは、この内なる声に導かれるがまま、仕事をやめ、木星探索という大きなプロジェクトに関わろうとするのである。


 ここに見出されるのも、まさしく、「ハイ・テンションな自己啓発」と「宿命論」だろう。ハチマキの夢、自分の宇宙船を持つという夢は、それが容易には叶えられない限りで、意味を持っている。そうした夢を持つことによって、日々の生活が有意味なものになってくる。日々の生活が、夢を実現させるための手段になっているわけである。しかし、ハチマキは、生活が安定し出したとき、つまり、自分の未来に一定の見通しができたとき、そのような実現不可能な夢が果たす役割に気がついてしまったのである。このとき、彼の前に示された未来とは、毎日の仕事をたんたんとこなすだけのルーチンとなってしまった日常だろう。そうした日常の無意味さに耐えられなかった彼は、人類未踏の壮大なプロジェクトという大きな物語に身を委ねるのである。


 最終的に、『プラネテス』は、エコロジックな価値観を導入することによって、上に書いたような葛藤を回避させてしまった。平凡な幸福と引き換えに手に入れることができる人生の充実した意味。そのような悪魔の取り引きを回避させるのは、超越的な視点を導入することによって、自分の視野からでは決して見通すことのできない全体を導入することによってなのである。そうした全体に根を張ることによって、彼は自らのアイデンティティを保つことができたのである。


 このような超越的な視点の導入という道を、僕は完全に否定するわけではないが、いきなりそこに向かうのは、議論に少々飛躍があるので、別の機会に改めて問題化することにしたい。ひとことだけ言っておけば、このような超越的な視点の導入が、手塚治虫を始めとして、様々なサブカル作品の結論として示されていることは、検討に値する問題である。


 今回もやや抽象的な議論になってしまったので、今度からはもっと具体的に作品を論じてみたい。問題としたいのは、『NARUTO』に見出すことができる宿命論、そして、今日のヒーローの多くに見出すことができる無力感である。