部分的な承認と全的な承認



 さて、今日は、ヒーローの無力さの問題を取り上げてみたい。


 少年向けのアニメやマンガでは、主人公の強さをいかにして表わすか、ということに対して、様々な工夫がなされている。端的な例を出せば、それは、合体であり、変身であるだろう。少年向けのアニメやマンガは、強さに関する様々な表象で満ち溢れているわけである。


 合体というのは、足し算の観念、掛け算の観念を導入することによって、強さを指し示している。三つのメカがひとつになることで、少なくとも三倍は、強い力を出すことができる、というわけだ。一本の矢では簡単に折れてしまうが、三本の矢なら折れにくいという、毛利元就の「三本の矢」の教訓と同じ発想である。


 さらに、合体には巨大化という要素も入り込んでいるだろう。より大きくなれば、より強くなるというのは、感覚的に非常に分かりやすい。また、巨大化は、ウルトラマンのように、変身の要素でもあるだろう。変身が指し示しているのは、別の存在に変わるということ、より力の強い存在になるということである。


 ここから、話を一歩進めて、次のように問うてみよう。果たして、ここで問題となっている強さは何を意味しているのだろうか? それは、物理的には力が強くなるという、ただそれだけの現象であるが、それが果たす役割ということを考えると、それは、可能性の拡大だと言える。力の強さは、それがどのように用いられようとも、今までできなかったことができるようになるという点では共通しているだろう。従って、それは、心理的には、自我の拡大だと言える。自分自身の存在の価値が増大するのである。この点が、視聴者であるわれわれに、大きな快楽を与えてくれるわけである。


 そのような力の強さが物語の上でどのように位置づけられているか、ということに注目して様々な作品を見ていくことは、興味深い試みである。例えば、『機動戦士ガンダム』と『新世紀エヴァンゲリオン』という二つの作品を取り上げてみよう。これら二つの作品に共通して描かれているのは、自分自身と自分の持っている力との間のギャップである。つまり、アムロにしろ、碇シンジにしろ、彼らは、自分と自分の力との間に適切な距離を取ることができないでいるのである。


 アムロの場合、彼は、自分に大きな力を与えてくれるガンダムというメカが自分から取り上げられることを極度に恐れている。ガンダムに乗ること、ガンダムを上手く操縦できることは、彼のアイデンティティになっており、それが彼に大きな自信を与えている。しかし、逆を言えば、彼からガンダムを取り上げてしまえば、彼は何ものでもない、ということになる。


 碇シンジの場合、問題となっているギャップは、別の姿を取る。つまり、それは、周囲が彼に期待している力と彼自身の存在とのギャップである。周囲の人間、とりわけ、彼の父親は、彼がエヴァンゲリオンという巨大ロボットを操縦できることで、彼を高く評価している。しかし、シンジが父親に求めているのは、そのような部分的な能力の承認ではなく、彼の存在の全的な承認である。シンジは、そのような全的な承認を、エヴァに乗って活躍するという部分的な努力を通して、父親から得ようとする。しかし、この関係は、父がシンジに、彼には耐えることのできない過酷な命令(友人を殺せという命令)を下すところで、破綻する。そこから、彼は、父のために力を使わない道、エヴァに乗らない道を選択しようとするのである。


 この全的な承認の問題は、エヴァの他のパイロット、レイやアスカにも言えることである。とりわけ、アスカに関しては、それが言える。彼女の問題も、シンジと同様、部分的な承認を介して全的な承認を得ようとしていたところにある。それゆえ、エヴァに乗って成果を上げることができなくなると、彼女のアイデンティティそのものも崩壊することになるのである。


 レイに関して言えば、彼女に見出すことができるのは、無私の精神、自我を押し殺す傾向である。つまり、彼女は、初めから、全的な承認などまったく期待していない。期待しているところがあるとしても、それを完全に押し殺している。それゆえ、彼女のアイデンティティは、シニカルに自己規定されている。つまり、自分というものなど存在せず、ただ他人から必要とされる部分的な能力がそこにあるだけだ、というわけである。このようなレイの存在規定は、彼女がクローン人間であるということによって、強化されている。「私になど固有の価値はない。なぜなら、私は他にもたくさんいるからだ」というわけである。こうした存在規定は、『ウルフズレイン』に出てきた花の少女と非常によく似ている。この少女は、自分のことを「私」とは言わず「これ」と言う。つまり、そこには、一人称は存在せず、ただ三人称だけがあるわけである。


 近年の作品で、このような部分的な承認と全的な承認とのギャップを描いた作品として注目に値するのが『エレメンタルジェレイド』である。この作品には「エディルレイド」と呼ばれる女性たちが登場する。彼女たちには、それぞれ、男性のパートナーがいて、そのパートナーの使う武器に変身することができる。ここにおいて、レンという名のエディルレイドは、綾波レイと同様、非常にシニカルになっている。つまり、男性が求めているのは、彼女がその男性に与えることができる力であって、自分自身そのものではない。それならば、自分のことを上手く使いこなせる男性のパートナーになろう、とまで言うのである。ここに見出すことのできる問題とは、『エヴァンゲリオン』と同様、愛の欠如とでも言うべきものである。


 さて、話が少し逸れてしまったが、とにかく、以上のことから明らかになるのは、力の有無の問題と自己の存在の価値づけの問題との密接な関係である。役に立つ人間であれば、周囲の人々から重宝がられるかも知れないが、それは、全的な承認とは関係ない。むしろ、重宝がられれば重宝がられるほど、そこでのギャップが大きくなるのである。


 しかしながら、そのような全的な承認を純粋に得る手段などあるのだろうか? この問題は、愛の問題と関わるので、ひとまず措くこととして、別のふうに問いを立ててみよう。部分的な承認と全的な承認とが密接に関わっている場合、その人物の無力さは、どのような意味を持っているのだろうか? この問いの答えは、上で少し述べたように、アイデンティティの崩壊を意味するというものである。つまり、自分などいてもいなくても同じだ、と思うようになるのである。


 このような虚無感こそ、鈴木謙介の本で示されているような「宿命論」の背後にあるものではないだろうか? そして、そのような虚無感から脱しようと自分自身を高揚させるのが「ハイ・テンションな自己啓発」と呼ばれる試みではないのか? つまるところ、ここにある対立軸とは、力があるかないか、有用か無用か、というものである。自分は必要のある人間なのかそうでないのかという自己認識である。それでは、最後に、次のように問うてみよう。そこで必要/不必要の判断を下しているのはいったい誰なのか? 誰にとってその人は必要/不必要であるのか?


 この問いは欲望に関わる問いである。誰がいったい自分のことを欲望しているのか? 他人から欲望される存在としての自分、他人に必要とされる自己の存在。今日のサブカルチャーは、このような自己の存在を必要とする他人というものを仮構することによって、様々な葛藤を解決しようとする傾向がある。僕がここでやろうとしているのは、それとは別の道を模索することである。


 次回は、最後のこの問いから出発して、いわゆる「自分探し」などで問題となる自分固有の欲望の問題に進んでいきたいと思っている。