自我の亀裂としての多重人格



 前回の最後で、僕は、「次回は、いわゆる「自分探し」などで問題となる自分固有の欲望の問題に進んでいきたい」と書いたが、あまり先を急ぐ必要もないので、今回は、前回話題にした部分的な承認と全的な承認とのギャップの問題をもっと深めていきたいと思う。


 部分的な承認と全的な承認とのギャップの問題、それは、端的に言って、自己イメージの問題、自分は自分のことをどのようにイメージしているかという自己認識の問題である。そこにあるのは、ひとつの亀裂である。自分のイメージの統一が弱くなり、細分化され、分裂していくのである。あるいは、そこに、価値あるものとしての自己像というものを発見できなくなっていくのである。そこにあるのは無、暗い影だけである。


 このような自己イメージの分裂についてのサブカル的な表象の代表格とでも言うべきなのが多重人格である。多重人格的なモチーフが出てくる作品をいくつか概観して思うのは、そこで示された個々の人格というのが、それぞれ独立したひとつのキャラクターになっているということである。ここでいうキャラクターとは、サブカルチャー作品の登場人物を指すときに使われる意味でのキャラクター、つまり、ある種の人格的なレッテルを貼られた登場人物のことである。


 マンガやアニメに登場するキャラクターは、往々にして、二つか三つくらいの、性格を指し示す言葉によって規定されている。つまり、お嬢様とか、委員長とか、ドジっ娘とかである。数年前にTV放送された『七人のナナ』という作品を取り上げてみよう。この作品は、女子中学生の鈴木ナナが、祖父の発明をきっかけにして、七人に分裂してしまう、という物語である。ここで分裂した七人のナナには、それぞれ愛称がつけられている。順に、ナナっぺ、ナナっち、ナナりん、ナナっこ、ナナさま、ナナぽん、そして、オリジナルのナナである(七人のナナを参照)。それぞれのナナには、「のんびり」だとか、「泣き虫」だとか、いろいろと性格づけがなされているわけだが、注目すべきは、こんなふうに、その内的な性格によって七人に分裂したにも関わらず、そこにオリジナルのナナが紛れ込んでいる点にある。


 このオリジナルの地位は、実に奇妙なものである。それは、分裂した他のナナを統合して得られるナナのはずだが、極端な性格づけがなされていない点で、それは無個性だと言っていい。加えて言えば、それは、他のキャラづけされたナナによって差し引かれたナナ、否定的な形で特徴づけられるナナ、非存在としてのナナである。ここで示された部分と全体との関係は、少々、捻じ曲がっている。通常理解されているような部分の総和としての全体という関係はそこにはない。統合された人格としてのナナ、オリジナルのナナは、全体としてだけでなく、部分としても現われているからである。


 ここで、この作品が指し示していることの意義は、非常に大きいものである。七人のナナが指し示していること、それは、全体など存在せず、存在しているのは、部分としての全体だけだ、ということである。あるいは、(様々な要素を統合する)統覚としての全体は、部分的な要素の差異(ギャップ)から生じる、ということである。


 ここから承認の問題に戻って考えてみよう。部分的な承認と全的な承認の問題とは、部分的な承認をいくら積み重ねても、全的な承認には決して行き着かないというものだったが、その理由は、七人のナナで示されていることから考えると明らかだろう。つまり、部分の総体が全体であるわけではないので、いくら部分的な承認を重ねても全的な承認には辿りつけない。全的な承認というものがもしありうるとすれば、それは、部分的な承認の破綻によってほのめかされるしかない、ということである。


 言い方を変えてみよう。全的な承認ということで問題となっている「私」とは、否定的な形でしか示すことのできない「私」である。つまり、「それは私ではない」というふうに、「○○でない」という形でしか示されない「私」である。『エヴァンゲリオン』の碇シンジのことを考えてみよう。彼が対決していたのは、自分の中に存在する部分的な要素、自分の一部分ではあるがそれを認めたくはない自分の要素である。


 そうしたギャップを印象的に示しているのが第二話の最後のほうに出てくるシーンである。意識不明になりながらも、使徒に勝利したシンジが、一瞬だけ目覚めて、ビルの壁面に映ったエヴァの姿を眺めるシーンである。そのとき、エヴァの装甲が外れて、生々しい不気味なエヴァの肉体が現われてくる。そこに突然、目玉が生じて、シンジのことを見つめる。しかし、このエヴァは、ビルの壁面に映っているのだから、シンジを見ているのはシンジ自身のはずである。彼を見ているのは彼自身のはずなのだが、自分自身に見られて最も驚いているのが自分自身なのである。


 エヴァに乗ることによってシンジは父親から認められる。しかし、そんなふうに父親から認められる自分の部分的な要素は、自分が最も嫌う自分の要素でもある。ここに自我の分裂があるわけだが、しかし、それは、部分的な要素同士の分裂ではなく、部分的な要素の内に入ったひび割れである。つまるところ、分裂が問題なのではなく、亀裂が問題なのである。


 議論を整理すれば、ここには、自己をイメージするための二つのやり方があるということだ。ひとつは、「私」というものを全体として捉えて、性格というものをその部分的な要素として捉えるやり方。もうひとつは、全体としての「私」というものを想定せず、個々の部分的な性格に回収されないものとして、常に否定的な形でのみ現われてくる「私」がある、という捉え方である。全的な承認は、まさに、この「私」に関わっているわけだが、この「私」をどこに回収するかで、今日の様々な作品の方向性が決まってくるわけである。


 さて、今回は、問題の概観を示したような形になったので、次回は、同じ問題を、いろいろな作品を通して、詰めていきたいと思っている。