コンプレックスと承認の問題――神尾葉子『まつりスペシャル』について

(コミックス第1巻を読んでの感想)


 少女マンガの伝統的なテーマのひとつに承認の問題がある。コンプレックスを抱えた女の子が、いかにして他者(男性)から承認を受けるのか、そして、そのことによって、いかにして自分に自信を持てるようになれるのか、という問題である。


 『まつりスペシャル』の主人公・羽生まつりもまた、コンプレックスを抱えた女の子である。彼女には、憧れのクラスメート(諸角渉)がいるのだが、この男性との関係において、二つのことが問題になっている(二重の問題がそこにはある)。ひとつは、女性として愛されたいという問題と、もうひとつは、個人として承認されたいという問題である(まつりは、学校の中で、他のクラスメートの女子から浮いてしまっている)。


 この二つは明確に切り離すことができない問題であり、それゆえに、まつりは、愛する男性から侮辱的な言葉をかけられたとしても、それによって部分的な満足(少なくともその存在を意識してもらえたという満足)を得るのである(憧れの男性から自分の存在を意識してもらえるということは、少女マンガの伝統においては、最初に達成されるべき課題であると言えるだろう。くらもちふさこの『タイムテーブル』では、この課題が失恋のあとに達成されるという、通常とは逆のプロセスをたどっている点で秀逸な作品である)。


 そうした少女マンガ的な承認の問題のうちに、ヒーローものにおけるアイデンティティの分裂の問題が組み込まれているところに、この『まつりスペシャル』という作品の特徴がある。アイデンティティの分裂の問題とは、正体を明かしてはならないという形で明示される問題であり、ひとりの人間としての人格とヒーローとしての人格との間に明確な亀裂が生じるのである。


 この点で、主人公のまつりは、『タイガーマスク』に代表されるようなヒーローの問題を抱えることとなる。つまり、彼女は、愛する男性(そしてクラスメートたち)から嫌われないようにするために、自分がプロレスラーであることを隠さなければならないのであるが(「「女が強い」というだけで怖がられて、そこからもう友達作りはあきらめていた」)、しかし、プロレスラーであることは、彼女にとって、自分自身のアイデンティティの一部になっているのである。


 このとき、彼女が試合のときにつけるマスクは、極めて象徴的な役割を担っている。つまり、そのマスクは、自分自身の本当の姿を表わすものであり、可能ならば愛する男性から認められたい自分の姿でもあるのだが、しかし、まさに、そのマスクという性質は、そうした自分の本質を愛する男性に隠すものにもなっているのである。まつりは、マスクをかぶっているときだけ、本当の自分でいられるのだが、しかしながら、マスクをかぶっていては、愛する男性から認められることは決してない。この矛盾を解決するためには、愛する男性の前でマスクを脱ぐということをしなければならないのである。


 このようなマスクの二重の役割は、例えば、くらもちふさこのデビュー作『メガネちゃんのひとりごと』のメガネが持っていた役割とほとんど同じである。そこにおいて、メガネは、主人公の女の子のコンプレックスを直接指し示すものであり、同時に、そうしたコンプレックスを隠すものにもなっている。彼女はメガネをかけている自分に対して自信が持てないわけだが、そうした自分のダメなところをすべてメガネをかけているせいにすることによって、自分を防衛しているとも言える。そうした二重の象徴的な役割をメガネが果たしているわけである。


 この短編作品では、最終的に、愛する男性から承認がもたらされるわけだが、それは、メガネを取った君は素晴らしいというものではなく(コンプレックスを越えたところに承認されるべき何かがあるのではなく)、「メガネは君の魅力だぜ」というものである。つまり、最も表面に現われていて、何かを隠す役割を果たしているもの(コンプレックスの結節点とでも言うべきもの)が、承認の焦点となっているのである。メガネという、それまで否定的に自己規定を行なう役割を担っていたものが、自分を肯定的に評価するためのアイテムへと反転するのである。


 同様のことが、この『まつりスペシャル』という作品でも課題になっている。果たして、まつりは、愛する男性の前で自分のマスクを脱ぐことができるのだろうか? どうやったら、まつりは、自分のコンプレックスを克服することができるのか?


 加えて、ここには、三角関係の問題も入りこんでいる。まつりはその男性のことを愛しているが彼のほうは彼女のことを認めてくれないそうした男性と、まつりのことを認めてくれてはいるが彼女としては恋愛の対象外である男性、この二人の男性との三角関係である。このあたりの人間関係については、そこに単に恋愛の問題だけではなく、承認の問題が入り込んでいるだけに、非常に複雑かつ巧妙に構成されていて、今後の展開が気になるところである。


 今日の社会状況のことを考えると、コンプレックスや承認の問題が焦点になるのは非常によく分かることである。その点で、恋愛の問題に承認の問題が過度に関わってくると、恋愛依存のような問題が生じてくることだろう。しかし、『まつりスペシャル』はそのような物語ではない。まつりのことを認めてくれる人はちゃんといるので、例えば、まつりがリストカットをするなどという場面を想像することはできない。つまり、この作品で問題になっているのはアイデンティティの分裂(とりわけ学校とそれ以外)であり、その限りでの承認の問題なのである。こうした部分的な場面での承認の問題というのも非常に今日的であると言える。いったい問題の根はどこにあるのだろうか? この点については、現在の社会状況とも絡めて、また別の機会に問題にしてみることにしたい。