2008年夏の新作アニメ雑感

 新作アニメをざっと見たので、感想を少し書いてみたい(もちろんチェックした限りでだが)。1話か2話しか見ていないので、内容には深く入らず、ちょっとしたメモということにしておきたい。


 今期の作品で非常に素晴らしかったのは『鉄腕バーディー DECODE』である。スタッフが豪華だったので期待していたのだが、期待に違わぬ出来だった。監督の赤根和樹については、『ヒートガイジェイ』のころから注目していて(『天空のエスカフローネ』は見ていない)、『ノエイン』にはかなり驚かされたが、今回の『鉄腕バーディー』にも、いろいろと驚かされそうだ。やはり、アクションシーンには期待できる(『ノエイン』のアクションシーンは素晴らしかった)。アニメの醍醐味は、やはり、様々な動きの変形、場合によってはほとんど荒唐無稽な動きの変形にあるだろうから、そうした点での動きの面白さに期待できそうな作品である。


 アニメーションの動きのクオリティというところでは、『ワールド・デストラクション 〜世界撲滅の六人〜 』もなかなか面白かった。そういうところは、流石プロダクションI.Gで、『RD 潜脳調査室』でも、驚くようなアクションシーンの回がいくつかあった。アクションばかりではなく、作画のクオリティに関しても、絵が単に上手いとか下手ということではなく、大胆な構図や極端なディフォルメなど、冒険的な試みを行なっている場面が散見される作品というのは、やはり素晴らしいと言える(『RD 潜脳調査室』のあの女性キャラクターのデザインなども、やはり、ひとつの大胆な発明だろう)。


 こうした動きの面白さを追究している作品に対して、リミテッドアニメーションの静止画的な可能性を追究していると言える作品が『魔法遣いに大切なこと〜夏のソラ〜』だろう。監督の小林治は、昨年、『天元突破グレンラガン』の第4話を演出して、その演出方法に対して、ネットで批判が噴出したわけだが、このことは、ガイナックスにおけるアニメーションの方向性と小林治のアニメーションの方向性とが齟齬をきたすものだったからに他ならない。ガイナックスの方向性が動画と作画の両面で高いクオリティを追究することを目指しているとすれば、小林治は、そうした方向性をいかにずらすかということを課題にしているように思われる。簡単に言ってしまうと、そこでの課題とは、意図的なチープさをいかにして画面にもたらすかということであって、そのために、ぎこちなさとか粗雑さとか、微妙に緩いスピード感とか、そうした演出方法が用いられているわけである(その結果、画面には、異国的な雰囲気が漂う)。こうしたことは、『BECK』や『Paradise Kiss』の頃から変わっていないが、『グレンラガン』の場合は、他の回のときとあまりに落差があったので、それが「作画崩壊」として捉えられてしまったのだろう。


 アニメ作品の作家性(スタイル)とでも言うべきものは監督によってもたらされるわけだが、アニメ制作会社によってももたらされる。監督が違っていても、アニメ制作会社が同じであるならば、そこには固有の雰囲気やスタイルが見出されるということはありうる。その点では、今回のノイタミナ作品である『西洋骨董洋菓子店』をJ.C.STAFFが作らなかったことは残念である。そもそも、ノイタミナ作品という枠組みにどれほどまとまったイメージを持てるかは問題であるが、今回の『西洋骨董洋菓子店』でもたらそうとしている淡く穏やかな雰囲気とでも言うべきものは、J.C.STAFFの作り上げた雰囲気であるだろう(特に『ハチミツとクローバー』と『のだめカンタービレ』によって)。今回の『西洋骨董洋菓子店』のアニメを制作しているのは日本アニメーションなわけだが、最近の日本アニメーションにどのような制作スタイルというか特色があるのかはよく分からない(70年代の世界名作劇場シリーズにはそれが明確にあったわけだが)。


 今回J.C.STAFFが作っている作品は『スレイヤーズREVOLUTION』なわけだが、この作品については、制作会社よりも、監督の渡部高志の色が濃く出ている作品と言えるかも知れない。今回の『スレイヤーズ』を形容するのに「90年代」という言葉が持ち出されるのをネットでいくつか見かけたが、しかし、そこには複雑な問題があるだろう。ここで言う「90年代」というのは、単に『スレイヤーズ』のアニメが90年代に作られたということだけを意味するのではないだろう。今回の『スレイヤーズR』は、ゼロ年代の作品であるにも関わらず、90年代的なアニメの雰囲気を(意識的に)再現しているということが言いたいのだろう。しかしながら、そこで「90年代」という言葉が何を指すのかははっきりしない。僕は当時『スレイヤーズ』はほとんど見ていなかったので、90年代の作品と今回の作品のどこが同じでどこが異なっているのか、また、そこで比較されるときに問題の焦点となっているのが何なのかということが、よくわからなかった。一応、最初の『スレイヤーズ』の第1話だけを見てみて、今回の作品と見比べてみたのだが、そこでいろいろと違っていることだけはよくわかったが、90年代的なものが何なのかはよくわからなかった(アニメーションのクオリティは間違いなく今回の作品のほうが高い)。少なくとも言えることは、世代的な問題として、90年代をトータルに振り返る時期が近づいているのかも知れないということである。


 J.C.STAFFのスタイルについて話をもう少し引っ張ると、今期の作品との関連で言えば、『スカイガールズ』と『ストライクウィッチーズ』とを比較してみるのは面白いかも知れない(『ストライクウィッチーズ』のアニメ制作はGONZO)。この二つの作品は、アニメを見慣れている人でないと、その差異を明確に意識することは難しいだろうし、アニメに関心がない人であれば、どちらの作品も同じものとして受け取られるだろう(というよりも、あらゆる萌えアニメが同じものとして受け取られるだろう)。残念なことではあるが、今後のアニメ作品というものは、このような微妙な差異にこだわることによってしか、その楽しみを引き出せないようなマイナージャンルになっていくだろう(現状のアニメ作品もほとんどそうしたものである)。僕としては、今のところ、『スカイガールズ』よりも『ストライクウィッチーズ』のほうが楽しんで見られそうな気がするが、それは、そこに、萌えとエロとがかなり付加されているからである。今日のアニメ作品の萌えとエロとの過剰には、ある種うんざりするところもあるが、しかし、エロはともかく、萌えのほうは、それだけ、ある種の現代性を獲得できるだけに、重要な要素だと言えるだろう(例えば今期の『薬師寺涼子の怪奇事件簿』などは萌えがないだけで現代性を失っているところがある)。


 『セキレイ』のような作品を見ていると、過去のあの作品とこの作品を結びつけて云々という連想がすぐに出てくるわけだが、こうした既視感というものも、衰退しつつあるジャンルにおいては当然の帰結であると言える。ひとつの作品に注目して、その作品をじっくりと分析してみればいろいろなことは言えるかも知れないが、そうしたことがどれほど意味のあることなのかはわからない。今日のアニメ作品のクオリティが非常に高いことだけは間違いない。しかし、そうしたクオリティの高さと、表現面などにおける斬新さとは別ものである。過去の作品を見ているとそうした様々な斬新さに驚かされることがあるが、現在のアニメ作品はそうした根本的なアニメの面白さを欠いている作品が多い。アニメを見慣れている人だったら、微妙な差異に大きな意味を込めて、それを楽しむことができるだろうが、そうした差異が新しい表現であるとは必ずしも言えないだろう。


 他に、『テレパシー少女 蘭』、『Mission-E』、『夏目友人帳』、『乃木坂春香の秘密』なども見たが、今のところ、語るべきことは見つからなかった(『乃木坂春香』のエンディングの二番煎じ的なダンスが『涼宮ハルヒの憂鬱』のダンスとどのように違うのかということは少し気になったが)。今後、何か論点が見つかったら、これらの作品についても何か言ってみることにしたい。