個人に鬱積する集団の暴力、補填不可能な絶対的損失――『モノノ怪』と『地獄少女』

 『モノノ怪』の「化猫」というエピソードで問題になっているのは、個々人のささやかな利己心や無関心が、あるひとりの人間を絶望的な状況に追いやるということである。個々人の意識の上では、他人の利益を損ねたり、他人を悲惨な状況に追いやることなどとんでもないことだと思っている。しかしながら、個々人のささやかな無関心が寄り集まると、そこに意図しない攻撃性が生み出されるのである。


 暴力の中でも最も恐ろしい暴力とは、このような種類の暴力、つまり、個人の暴力ではなく集団の暴力ではないだろうか? そんなふうに蓄積され、形作られた暴力は、その来歴がはっきりしないまま、ひとりの人間を襲い、その人間を、理不尽にも、まったく悲惨な状態に追いやるのである。


 モノノケの出現とは、そのような暴力の逆流現象だと言えるかも知れない。個人では抱え切れない負のエネルギーが逆流現象を引き起こすのである。手塚治虫のマンガ『ボンバ!』は、そのような逆流現象を描いた作品だと言える。ひとりの少年の憎しみがここでは馬の形を取るわけだが、しかし、そもそも、この少年の中に降り積もったものが問題である。少年は、そのように鬱積されたものを放出したのである*1


 日本人や日本社会の特徴について、しばしば「無責任」という言葉が使われるが、実際のところは、こんなふうにして、まったく無関係の諸個人が、知らず知らずのうちに、何かの責任を強制的に取らされているのかも知れない。つまり、何かの代償を、そうとは知らずに、支払わされているということである。


 警戒すべきは、逆説的なことながら、他人を哀れんだり、他人に同情したりすることだろう。というのは、『モノノ怪』のいくつかのエピソードに見られるように、そうした同情がひとつの物語を形作り、出来事の真実を覆い隠すことになるからである。そこに一抹の美しさでもあれば、そこで行使されている暴力は、通りのいい物語として、受け入れられてしまうことになるだろう(他人の悲惨な出来事は美談として語られてしまう)。


 「海坊主」と「のっぺらぼう」という二つのエピソードが示しているのは、モノノケを作り出すのは、そうした負のエネルギーを抑えこもうとする自分自身である、ということだ。自分と敵対するものは、自分の外にいるのではなく、自分の中にいる。フロイトの局所論のように、対立関係は、すでに、心の内にあるのだ。


 こうした点で、薬売りは、一種の精神分析家の役割を果たしていると言えるだろう。彼の役割とは、モノノケを切ることなわけだが、しかしながら、そのためには人々の話を聞いて、「形(かたち)」と「真(まこと)」と「理(ことわり)」を明らかにしなければならない。ここで明らかにされるものを「抑圧されたもの」と呼ぶこともできるだろう。


 ここでの「切る」という言葉には二重三重の意味が込められている。それは問題の解決を意味しているかも知れないが、「思い切る」という言葉で用いられているような断念という意味も含まれていることだろう。つまり、そこには、飛躍があるのだ。「形」と「真」と「理」が揃ったからと言って、それが出来事のすべてであるわけではないだろう。今まで語られなかったことが語られたとしても、それで不満が解消されるわけではないだろう。やはり、問題を解決するためには、そこに飛躍が必要なのであり、そうした飛躍をもたらすのが薬売りの役割だと言える。


 『モノノ怪』においては、何らかの道徳的な価値判断、道徳的な正しさが問題になっているだろうか? 薬売りの役目とは、道徳的な判断を下すことではなく、出来事の隠れている側面を明らかにすることだと言える。こうしたことは、また、『地獄少女』についても言えることだろう。『地獄少女』の閻魔あいの役割とは、悪人を裁くことではない。ここには道徳的な判断は存在しない。物語の構成は、しばしば、悪人に対する因果応報という形を取っているが、しかしながら、依頼主もまた地獄に落ちるということから、問題になっているのは、そうした因果応報ではないことが分かる。


 しかしながら、『地獄少女』の問題点とは、そんなふうに、あるひとりの人間のうちに鬱積した負のエネルギーを、その人間がそれを引き受けるという形で、つまり、少数の人間と自分自身とを地獄送りにすることによって、問題を解消している点である。つまり、『地獄少女』は、徹底した自己責任論を提示しているのである。しかしながら、自己責任論において欠如しているのは、われわれの無意識下に置かれているものへの配慮、つまり、社会制度を始めとしたわれわれの環境への視点である。


 「ボンバ」とは爆発の名である。それは抑えつけられていたものが爆発したことの名である。『ボンバ!』の少年にとって、馬の足音(時限爆弾の時計の針の音、導火線が短くなっていく音)とは、当初、少年自身にとっても恐怖の対象であった。自分自身の中にある憎しみの感情を認めることは、少年にとっても、恐ろしいことだったのである。


 『モノノ怪』の「のっぺらぼう」のエピソードで明確に描かれていたように、自分自身の中にいるもうひとりの自分、仮面の下にいる自分を認めることが最も困難なことなのであり、それゆえに、問題解決の手段として、自分の外部にモノノケが生み出される。多重人格についてしばしば与えられる説明のように、心理的な負担を減らすために、自己が分裂するのである。


 個々人の利己心や無関心についても、そのような自己分裂を見出すことができるかも知れない。自分の行なっていることの統一性(人格の統一性)を図らないこと、自分の行なっていることの影響範囲にそれほど思いをはせないこと、そうしたある種のいい加減さが、自己の存立を保つことになる。つまり、あまりにも真剣に何かを考えてしまうと、決定的な破綻や亀裂がもたらされることになる。それゆえ、そうした破綻を避けるためには、何かについて考えることよりもむしろ、何かについて考えないことのほうが重要になってくるのである。


 つまるところ、ここで求められているのは、そこそこの道徳的判断であり、そこそこの善への奉仕であり、そこそこの悪への嫌悪なのである。それゆえに、こうした処世術的態度においては、ちょっとしたボランティア精神を発揮することが重要になってくるだろうし、同時にまた、ちょっとした逸脱行為、ちょっとした悪をなすこともまた推奨されることになるだろう。何かにコミットしすぎること、明確な立場表明をすることが、ここでは最も忌避されていることなのである。


 『地獄少女』や『モノノ怪』が明示していること。それは、死というものが、ひとつの限界にはなっていないということである。『モノノ怪』においては、死を越えて、他人の恨みや憎しみが残存する。『地獄少女』においては、死後の生というものが問題となり、死後に地獄送りになることによって、死の限界が取り払われることとなる(つまり、死がこの世の脱出口になることはない)。両作品とも、「死人に口なし」というわけではないのだ。


 『地獄少女』で語られる「午前零時の帳の向こう」とは、われわれのもうひとつの生の舞台について言及していると言える。『モノノ怪』で語られる「形・真・理」についても、そうしたもうひとつの世界が問題になっていると言える。もうひとつの世界は「形」がない(潜在的である)。この世の現われが虚偽のものだとすれば、もうひとつの隠れている世界のほうが「真」である。なぜそんなふうに世界が二分しているのかというところに「理」があると言えるだろう。


 もうひとつの世界とは、別段、あの世のことではない。それを「あの世」とか「彼岸」と呼んでもいいかも知れないが、そこで問題となっている世界とは、潜在的な世界のことである。閻魔あいの「いっぺん死んでみる?」という言葉を積極的に理解しようとすれば、そこで問題になっていることは、もうひとつの世界に足を踏み入れることだろう。つまり、作品内の位相で言えば、この世の生を終えて(一度死に)、地獄での生を送るということである。


 もうひとつの世界への移行においては、立場の入れ替えが問題になっていると言える。閻魔あいによって地獄送りにされる人物は、地獄に行く前に、依頼主の憎しみが具現化されたような世界に迷い込む。そして、依頼主のほうも、地獄送りにされた人物と同じく地獄送りにされることで、立場の交換がなされる。


 しかしながら、完全な入れ替えが起きることは不可能であるだろう。それゆえ、恨みが完全に晴れるということもありえないことだろう。だからこそ、『モノノ怪』とは違って、『地獄少女』で問題になっているのは、自分の手を汚すことなく他人を排除(抹殺)することなのである。つまり、そこで手に入ることになるのは、恨みを晴らすことによって得られるカタルシス以上に、あるひとりの人間がいなくなった後の世界そのものなのである。


 われわれ現代人にとって決定的に重要なのは、修復不可能なもの、代替不可能なもの、一回的なものなのかも知れない。修復不可能なまでに徹底的に損なわれたもの。そうした損失をすぐさま補填しようとする考えは最善のものではないだろう。失われたものが常に何かで補填できるわけではない。その種の損失は絶対的な損失なのである。『モノノ怪』や『地獄少女』といった作品を見ることは、そのような損失と補填との間のズレを実感することであると言える。

*1:『ボンバ!』については次のエントリを参照のこと。「手塚治虫『ボンバ!』――物語には回収されない過剰なもの」。