暴力とコミュニケーション――アニメ『ブラスレイター』について

 現在放送中のアニメ『ブラスレイター』は、暴力とコミュニケーションを巡って、様々な問題を提起している作品だと言える。暴力とコミュニケーションとの関係は、端的に、こう言えるだろう。話すことができないとき、話すことが無力であるとき、そこに暴力が生まれる、と。つまり、暴力とは、話すことの代わりに行なわれる行為、話すことによって何も問題が解決がされないときに行なわれる代償行為であると言える。ということは、つまり、暴力行為があるところには、常に、未だ言語化されていない言葉があると言えるだろう。


 アニメ『紅 kurenai』もまた、暴力とコミュニケーションとを扱っていた作品だと言える。見ず知らずの他者との同居は、端的に、コミュニケーションの問題を提起する。問題解決の手段として、話をすることは、時に極めて無力なことがあるだろう。暴力を用いれば問題解決が容易な場面があることだろう(揉め事処理屋としての紅真九郎)。しかしながら、だからこそ、コミュニケーションを重視するという倫理的立場が生じてくるのである。


 『ブラスレイター』に出てくるデモニアック(悪魔憑き)とは、語らなくなった人間であると言えるかも知れない(しばしば死者がデモニアックになる)。デモニアックたちのコミュニケーション手段とは、言葉ではなく、直接的な暴力行為、あるいは、物質との融合、さらには、ナノマシンによる感染(自分と同じ存在の再生産)である。だが、ジョセフやゲルトのように、デモニアックになりつつも、語る存在であり続ける者たちもいる。彼らは、まさに、境界線上にいる存在だと言える。彼らは、つまり、悪魔と人間との境界、死者と生者との境界にいるのである。


 テロリズムとは、まさに、コミュニケーションへの絶望を表明した逆説的なコミュニケーション手段だと言えるだろう。誰かに何かを聞かせるために暴力という手段を用いる。誰かに話を聞いてもらうために誰かを殺す。話を聞いてもらえないとか理解してもらえないというコミュニケーションの溝を埋めるために暴力が用いられるのだ。


 『ブラスレイター』では、ゲルトやマレクが、そのような溝を前にした人物として登場してくる。大きく口を開けた溝や裂け目を前にして彼らが感じるのは、自らの無力さである。こうした無力さが時に力を呼び寄せる。レーサーとして再起不能となったゲルトは、力を得ることで、デモニアックと闘うヒーローとして蘇る。しかし、この力がまた暴力の源泉にもなる。様々な作品で描かれているように、善の側にいたヒーローが悪の側に転じることになるその原因は、自らの無力さを克服するために力を追い求めるというそうした志向性それ自体のうちにあると言える。


 『GUNSLINGER GIRL』と『エルフェンリート』という二つの作品に見出すことができるのは、か弱くて愛らしい少女たちが、人々を惨殺する壮絶な力を持つというギャップである。『エルフェンリート』におけるルーシー/にゅうの二重人格という設定が重要である。ここでの分裂が指し示しているのは、極めて脆弱な存在が、自らを愛させるために、暴力行為に訴えかけるという飛躍である。愛されることを望んでいるのだが、それが暴力行為を生み出す源泉にもなっているのである。


 こうした暴力行為を子供による暴力行為と呼ぶことができるだろう。アニメ『なるたる』に見出すことができるのが、まさにそのような暴力行為、つまり、世界を破滅させることを目的とするような暴力行為である。黒の子供会のメンバーたちが目指しているのは、社会変革などというものではないだろう。そこで示されているのは、端的に、世界の否定であり、そうした否定を行なう手段として暴力が用いられるのである。


 愛されたいという願いと暴力行為との関わりは、以前に問題にしたことであるが、『NARUTO』にも見出すことができる主題である*1。そして、このことは、『無限のリヴァイアス』や『機動戦士ガンダムSEED』、さらには、『コードギアス』のような作品に描かれているように、愛するものを守るためには力が必要であり、そうした力は時に暴力になるというテーマとも関わりがあることだろう。


 『ブラスレイター』の主人公ジョセフが常に警戒しているのは、そんなふうに力が暴力へと転換してしまうことだろう。ここに、現代のヒーローとしてのジョセフの倫理と苦悩がある。悪魔たちは外部からやってくるのではなく、内部からやってくる。それは、ある種の誘惑に負けることである。イエス・キリストが悪魔から誘惑を受けたように、力を求めることは誘惑的な出来事である。


 それゆえ、『ブラスレイター』で描かれている終末は、ひとつの典型であると言えるだろう。そこでもたらされるカタストロフは、外部から到来するのではなく、内部からやってくる。それが外部からやってくるように見えたとしても、問題の根はすでに内部にあったのだ。


 そうした問題の根のひとつが、コミュニケーションのレベルでの断層であると言えるだろう。あるいは、そこで問題になっているのは、孤独な生だと言えるかも知れない。誤解や無理解が生み出す孤独な生である。『地獄少女』や『モノノ怪』といった作品で問題化されていたのは、まさに、そうした無理解によって、言語化されなかった言葉が暴力的な姿をまとって出現する瞬間である。『地獄少女』においては、言語化に対する絶望は、端的に、ひとりの人間の排除という結果をもたらす。『モノノ怪』においては、語られなかった真実を語り直すことによって、事態の正常化が図られる。


 話すことが、逆に、お互いの無理解を深めてしまうという状況もあることだろう。暴力を避けるために十全なコミュニケーションを目指すべきだ、というふうに安易に結論を出すことはできない。コミュニケーションを強いることそれ自体が暴力となることも時にはあるだろう。家族の問題が提起されるときには、その背後で常に孤独な生の問題も提起されていると言えるが、家族か孤独かの二者択一が問題になっているわけでもないだろう。少なくとも、『ブラスレイター』の主人公のジョセフは孤独である。おそらく、この点が、今後この作品を見ていくにあたっての注目点になるだろうが、そのことについては、また別の機会に問題にしてみることにしたい。