暴力とコミュニケーション(その3)――秋葉原無差別殺傷事件と加藤智大について

 これまで、二回、このブログで、「暴力とコミュニケーション」という題で記事を書いてきたが、このようなテーマ設定を提示したのは、2008年6月8日に起きた秋葉原無差別殺傷事件にショックを受けたからである。


 当時は、いろいろな理由から、この事件を真正面から取り上げて、ブログに記事を書く気にはなれなかった。それだけ事件のショックが大きかったということもあるし、いったい何が問題になっているのかということを自分なりに十分に把握できていなかったということもある。現在でも十分に事件のことを理解しているとはとても言えないのだが、半年以上が経過し、テレビでもネットでも、この事件についてほとんど語られなくなった今だからこそ、あえて秋葉原事件と加藤智大について、少し書いてみたいと思う。


(これから書くことに、念のために注記を加えておけば、僕は、加藤本人が何を思って事件を起こしたのか、そういうことはまったく分からない。僕が以下に書くことは、秋葉原事件と加藤智大にまつわる断片的な情報から僕が考えたことだけである。従って、以下に書いてあることは、僕が今までにこのブログでやってきたようなアニメ作品などの分析と大差がない。僕の目の前に立ち現われたものからどのような意味を汲み取ることができるのか、ということを考えているに過ぎない)。


 しかし、とは言っても、基本的に僕の言いたいことは、すでに、以前に書いた二つの記事で言ってしまったところがある。僕の言いたかったこととは、すなわち、加藤智大の殺人行為とは端的にコミュニケーション行為ではないのか、というものである。


 人は、普通、言語を用いることによって、他人とコミュニケートする。加藤ももちろん、言語を用いるというところから出発したことだろう。しかしながら、彼には、言語を用いたコミュニケーションに対する恐れのようなものがあるように思える。ここでの恐れとは、端的に、返事がやってこないことの恐れ、話しかけても無視されることの恐れである。


 そうした点から考えると、ほとんど人のやってこない掲示板に、あたかもTwitterに書き込むかのように、自分の呟きを書き込むという加藤の振る舞いには、矛盾したところがあるように思える。もし誰でもいいから誰かの返事が欲しければ、2ちゃんねるのような人のいっぱいいる掲示板に書き込みをすればいいだろう。しかしそうはしなかったということから翻って考えるに、加藤は、単純に、誰でもいいから誰かの返事が欲しかったわけではないだろう。加藤の欲しかったものは、返事それ自体というよりも、偶然に訪れた奇跡の瞬間のようなものだったのではないか?


 比喩を用いて言えば、こういうことである。人がいっぱいいる場所で何か奇怪なことを大声で叫べば、誰かから返事がやってくるのは当たり前のことである。少なくとも、みんなが自分を見てくれることは間違いがない。加藤が望んだのはそういうことではなく、誰も人がいないはずのひっそりとした場所でこっそりと呟いた独り言を誰かが偶然に聞き届けてくれた、というものではないのか? 誰か個人が自分の言うことを聞いてくれた。このような聴取は、不特定多数の聴衆に話しかけることとはまったく別のことではないだろうか?


 加藤が欲したのは、根源的なコミュニケーションとでも言うべきものであるように思える。それは、存在の承認というものに関わるコミュニケーションである。ただ単に、人と人とが話すということが問題なのではない。あなたが私の話を聞いてくれるのは他の誰でもないこの私があなたに話しかけているからなんだ、というような代替不可能なコミュニケーションが問題なのである。


 加藤が言語的コミュニケーションに臆病だったのは、まさに、この代替可能性の問いに彼が捕われていたからであるだろう。つまり、自分などいてもいなくても同じなのではないか、という問いである。


 このことが、まさに、彼の派遣労働と関わっている。彼の犯行の切っ掛けとなった出来事とは、仕事場のロッカールームから彼のツナギがなくなった(と彼が思った)というものであるが、このツナギの紛失が意味していることとは、まさしく、代替可能性以外の何ものでもないだろう。ツナギが仮になくなったとしても新しいツナギを用意すればそれで事足りる。同様に、加藤がいなくなったとしても、別の人間を雇えばそれで事が済む。派遣労働が問題であるのは、その不安定な労働環境以上に、代替可能な人間存在というものを各人にことさらに意識させるところにあるだろう(不安定なのは、まさに、各人の実存である)。


 かくして、言語的コミュニケーションに絶望した加藤は、言語とは別の手段によって、他人とコミュニケーションを図ろうとする。それは、トラックをぶつけたり、ナイフで刺したりするといった種類のコミュニケーションである。これらの手段は、肉体が肉体と接触するという仕方のコミュニケーションだと言える。言語という媒介を用いるのではなく、直接に肉体が肉体に関係するのである。


 肉体が直接に肉体と接触することによって得られるもの、それは、自分の肉体の存在感であるだろう。他人の肉体を介することによって自分の存在を知るということ。自分がちゃんとここにいるということを実感すること。このことは、自分の存在を他人に知ってもらうというのと同義であるだろう(どのような手段を用いるとしても、他人の存在を介することによってしか、自分の姿を知ることはできないだろう)。しかし、加藤がいったい、どのような自分の姿を他人に知ってもらおうと思っていたのか、それは定かではない。彼のうちにあったのは、まったく存在価値のない無様な自分の姿だけだったのかも知れない。いずれにしても、加藤は、悪意の塊のような殺人者として自分の姿を人々に印象づけたわけである。


 つまるところ、加藤は、コミュニケーションの欲望が非常に大きい人物だったと言える。他人と関わることを切に欲していた人物だと言える。しかしながら、ここにおいて、言語が大きな壁となるのだ。言語というものは、われわれを結びつけると同時に、われわれを分断させる。レッテルを貼りつけることによって、われわれは、他人と自分を同じ存在だと認めもするが、そのレッテルが同時に、他人と自分とを違う存在として認識させもする。加藤には、自分と他人とを結びつける言葉が決定的に欠けていたと言えるだろう。


 言語があるからわれわれは殺さないとも言えるし、言語があるからわれわれは殺すとも言える。われわれ個々人は孤立した存在であり、他人との間には決定的な溝がある。肉体と肉体が接触したとしても、その溝を埋めることはできない。人間にできることは、おそらく、この溝の存在を一時的に忘れることだろうが、孤独な加藤には、自分と他人との間の溝が、一時的な忘却を許さないほど、とてつもなく大きなものに感じられたことだろう。


 孤独な生を取り囲む巨大な溝。秋葉原事件が僕に喚起するのは、このような溝を前にして語る言葉を発見することができなかったというコミュニケーションの無力さと、それでも人間は他人とコミュニケートしていくしかないという徒労感に似た諦めである。