われわれの社会的な関係性はどうなっているのか――『コードギアス』についてのちょっとしたメモ(その2)

 最近考えていることや興味のあることを、取りとめもなく、だらだらと書いてみたい。


 先日『コードギアス』についてちょっと書いたわけだが、なぜ再び『ギアス』に興味を持ち始めたかというと、最近またしても、人間と人間との関係性について考えているからである。


 人間と人間との関係性についての興味は以前から持っていたが、これは、コミュニケーションに対する関心と言い換えてもいいだろう。こうしたレベルでの問題が『ギアス』にも見出されるように思うのである。


 人間は、多かれ少なかれ、集団で生活しているわけだが、しかし、どのような資格において、どのような関係性の下で、集団を形成しているのかは、まったく自明ではない。僕は、人間が集まれば自然と集団が形成されるようになるとはまったく思えないというか、人間というものをそんなに単純に信じることができない。動物ならば、そこには本能というものが想定されるだろうから、動物の集団というものには、明確な方向性というものを見出すことができるだろうが、人間の集団の方向性などというものには、まったく自明性がないだろう。


 そういう意味では、あらゆる人間集団のうちに、何らかの人工的な制度というものを見出すべきであり、家族というものも、そのような人工的な制度として理解すべきであるだろう。母と子の関係性だけは、そこに生物学的な繋がりがあるので、ある種の自明性を獲得しやすいかも知れないが、しかし、母子関係もまた、人工的な制度に組み込まれることには変わりがないだろう。


 『コードギアス』や『ガンダム00』という最近のアニメ作品に限る話ではないが、しばしば、日本のサブカルチャー作品においては、戦争に代表されるような争いや対立というものがよくないものとされ、平和な状態がいいものとされる。戦争状態がダメで、平和状態がいいというのを集団という言葉を使って言い換えてみれば、人間の集団をひとつに維持するのがいいことであって、その集団をいくつかに分割し対立させることはよくないことだ、ということだろう。


 それでは、いったい、どのような名の下に、つまりは、どのような関係性を築くことによって、人間たちをひとつの集団にまとめ上げることができるのか。こうしたことが、『コードギアス』や『ダブルオー』という作品では問題になっていたように思うのである。


 僕は、昨年から、コミュニケーションと暴力との関係について興味を持っていたのだが、暴力というのは、まさしく、人間と人間とが関係を持つ、そのような狭間で生じる出来事であるように思える。『コードギアス』におけるギアスの能力、つまり、相手の意志を自由に操る能力というものは、まさしく、暴力に他ならない。


 『ギアス』や『ダブルオー』という作品では、世界を変える、あるいは、社会を変えるということが問題になっているように思える。社会変革という問題設定、「社会を変える」という言い方で提起される問題設定というものもまた、人間と人間との関係性をどのように再構築するかという問題設定だと言えるだろう。例えば、マルクス主義においては、資本家と労働者との関係性に焦点が当てられたわけだが、マルクス主義の物語が力を失った今日において、果たして、これほどまでに明確な社会的な関係性を打ち出すことができるのだろうか。


 おそらく、現代においては、「社会を変える」という言葉にどのようなイメージを付与すればいいのか、そこのところがはっきりしないのではないかと思う。部分的な改良というところではいろいろと想像できるだろうが、人類史的な発展というものを想像するのはなかなか困難なことではないかと思う。そういう点では、あらゆる紛争がなくなり、世界がひとつになるという、『ギアス』や『ダブルオー』で示された帰結が人類史的な発展のひとつのイメージになりうるのかも知れないが、しかし、そこで、個々人がどのような関係性を築いていくのかというところは謎めいている。


 『ギアス』や『ダブルオー』に見出されるような大衆批判というもの、つまり、政治に無関心であり、自分たちの日常生活の快/不快にしか関心を持たないような人々に対する批判というのは、どこか間違っている気がする。セカイ系がラディカルだったのは、国内の社会問題や海外の紛争などについて興味を持つことが世界に通じることではなく、私個人の日常生活の出来事に閉じこもることがむしろ世界に通じることだ、というような素朴な実感に基づいているところである。


 つまるところ、ここで問題になっているのは、人類という種と「私」という個体のどちらが重要なのか、ということである。仮に人類という種のほうが重要だとしても、そのような種のために個が犠牲になるのは、いったいどのような資格においてなのか、ということが問題になるだろう。こうした関係性を問題とすることなくして、個に犠牲を強いることなどできるのだろうか。現在の社会、現在の日本社会でも、犠牲にされる個というものは存在するだろうが、そこでの関係性は明瞭ではないと言える。漠然と「弱者」などという言葉が使われることがあるが、いったい、そこにどのような関係性が構築されようとしているのかを詳しく見ていく必要があるだろう。


 僕の興味というのは、簡単に言ってしまえば、人間は人間というものをどのようなものだと思って見ているのか、ということである。あるいは、人間は、他人とどのような関係を築こうとしているのか、ということである。素朴なところを言えば、支配・被支配の関係について、われわれは、どのように思っているのだろうか。おそらく、そのような関係性はよくないものだと多くの人が思っているだろうが、しかし、そのような関係性を築くことを十分に回避しているかと言うと、そうは見えないところがある。というのは、われわれの意識の水準とは別のところで、制度によって行動が左右されているところがあるからなのだが、そうした行動の水準に関して、われわれは概ね無関心であるということは言えるかも知れない。


 『コードギアス』という作品は、まさに、人間の行動を無意識のうちに操るギアスという能力を描いている点で、こうした問題に触れているところがあると思うのだが、その点について、もう少し上手く論じることができればいいと思っている。これは今後の課題である。