『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その5)――日常系の自己反省的効果、過剰な要素としての反復する名前

 いわゆる「日常系」というジャンルに『らき☆すた』も含めることができるだろうが、しかしながら、そこでひとつの作品ジャンルとされている「日常」とはいかなるものなのか、「日常」という言葉の内実とはどのようなものなのか、ということがひとつの問題となる。


 アニメ『みなみけ』の前口上「この物語は、南家三姉妹の平凡な日常を淡々と描く物です。過度な期待はしないでください」は、この作品を一度でも見たことがある人ならば同意してもらえると思うが、極めて逆説的な自己規定である。そこでは、南家の「日常」が描かれているかも知れないが、それを「平凡」と呼ぶことは決してできないだろうし、そもそもそこで描かれている出来事が「日常」であるかどうかも疑わしい。


 宮台真司は『終わりなき日常を生きろ』で『うる星やつら』を引き合いに出して「終わりなき日常」について語っていたが、これも逆説的である。つまり、『うる星やつら』では友引町の日常生活が描かれていたと言えるかも知れないが、それを「日常」と呼ぶことができるかどうかは問題だろう。父・母・息子という非常に小さな家族である諸星家に、絶えず様々な人物(宇宙人なども含めた)がやってきて、ドタバタ騒ぎを引き起こす。こうした事態は、それが「日常」だとしても、ほとんど非日常化した日常ではないだろうか?


 この点は『みなみけ』も同じである。『みなみけ』では、家庭と学校という二つの場所が中心になって、ドタバタ騒ぎが起こる。諸星家は一戸建てに住んでいたが、南家の三姉妹はマンションに住んでいて、その小さな場所に、『うる星やつら』と同様、様々な人間がやってくる。家庭と学校という日常生活を送る場所が中心に描かれるという点では、そこで日常が問題になっていると言えるかも知れないが、そこでの出来事の描かれ方は非日常的だと言えるだろう(つまり、そこには、日常生活に特有の退屈なルーティンがない)。


 『涼宮ハルヒの憂鬱』でハルヒが望んでいた非日常的な生活は、宇宙人や超能力者や未来人によってもたらされるものであったわけだが、そこでハルヒがイメージしていたのは、『うる星やつら』で描かれていたような世界だったのかも知れない。問題は何かが起こるということだろう。夏休みに旅行して、そこで殺人事件が起きれば、それは非日常と呼べるだろうが、夏休みに旅行することだけでも非日常と呼ぶことはできないだろうか(「孤島症候群」)? また、『金田一少年の事件簿』のように、四六時中、何らかの事件が起きている世界では、事件が起きることそれ自体は、日常的な出来事だと言えないだろうか?


 こんなふうに考えていくと、日常と非日常との区別は、非常に曖昧だと言える。その上で、さらに、「日常系」という言葉に積極的な意味を与えるとすれば、それは、日々の小さな出来事のうちに何かを発見していく態度、日々繰り返されるルーティンワークのうちに、ほんのわずかであるとしても、非日常的な何かを発見していく態度、そのような態度に重要な価値を見出す傾向性を「日常系」と呼べるのではないだろうか(「日常の中にキラキラがある」)?


 つまり、土台にあるのは、日々の生活を送っていくことであり、そうした日常生活をやめることが問題になっているのではない。退屈な日常生活を送っていくことはやめない。しかしながら、そうした生活の中で見過ごされているもの、過小評価されているものを積極的に評価し直して、そこでの価値を再発見することが求められているのである。


 その点で、様々な小さな出来事を描くことで『らき☆すた』が狙っているのは、われわれが普段見逃していたり、まったく意識していなかったりするものに意識を向けさせることにあるだろう。非常にたくさん種類のあるパンの中からチョココロネをピックアップすること、そして、そのチョココロネの太いほうと細いほうのどちらが頭なのかを問題にすること、さらには、チョココロネをどんなふうに食べるのが「正しい」のかを問題にすること。こうしたどうでもいいことに着目することそれ自体が、ひとつの大きな発見なのであり、そうした発見が、われわれの日常生活の意味づけに大きな役割を果たしているのである。


 つまり、日常系作品で行なわれていることは、端的に、反省行為であると言えるだろう。私が私のことを考えるように、日常生活の中で日常生活のことが反省されているのである。


 この点で、『らき☆すた』において、異質な要素として提示されているのは、オープニングのダンスである。このダンスは、文化祭で披露される出し物という形で、本編の物語の中に回収されているが、しかしながら、そのことだけにオープニングのダンスを還元してしまうことはできない。本編のエピソードが日常生活の反省行為であるとすれば、そこから突出してしまうのが、オープニングのダンスなのである。


 この『らき☆すた』のダンスは、『涼宮ハルヒ』のダンスと同様、多くの模倣行為を生んだと言える。ここには、アニメを見ることに対する、京都アニメーションの鋭い問題意識があると言える。『涼宮ハルヒ』という作品のメッセージが「世界の終わりなどという過激なことを考えることはやめて、日常生活を大いに楽しもう!」というものだとすれば、このメッセージはすでにエンディングのダンスのうちに体現されているだろうし、また、このメッセージはダンスを模倣することによって無意識的に伝達されていると言えるだろう。


 『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメを見ることは、このアニメで提出されている様々な謎について語ることでもあったわけだが、同様の効果を京都アニメーションは狙っていることだろう。つまり、『らき☆すた』にしろ『ハルヒ』にしろ、そこで狙われていることは、それらの作品内では完結しない過剰な要素を視聴者に委ねることなのである。それは、作品内で未完成な部分を視聴者が補完するということではなく、アニメを見ること以上の行動を視聴者に誘発させるということである。そもそも、日常系作品それ自体が、われわれの日常生活を反省させるように促すわけだが、それ以上の何かがそこでもたらされるのである(例えば、『らき☆すた』の放送当初、オープニングの歌詞を解読しようという情熱がネットの一部で高まったことを思い出してほしい)。


 『らき☆すた』にはあまりにも多くの過剰な要素が詰め込まれているが、そうした要素は、『絶望先生』や『ぱにぽに』に仕込まれている多量の情報(オタクネタ)とは異質なものだと言えるだろう。『ぱにぽに』や『絶望先生』に仕込まれている多量のネタは、われわれの記憶を触発し、そこで見ているアニメの情報量を増加させる(例えば、『絶望先生』では、それぞれのエピソードで話題になっている事柄の例が、文字情報として、作品の中に提示されるが、そうした情報は、録画した映像を一時停止して見ない限り、十全に把握することはできないし、むしろ、十分に把握できないほどの多量な情報ということそれ自体がひとつの質を生み出しているのである)。元ネタを知らなくてもアニメを楽しむことはできるが、知っていればなおいっそう楽しむことができる、というわけである。


 しかし、『らき☆すた』の過剰な要素は、そうしたネタには還元できない。そこには、外部にあるものを参照させるように促す何かが、外部にある多様なネットワークを参照するように促す何かがあるのだ(もちろん、何かをネタにすることは、外部にあるものを対象化することであるが、そうしたことと、あるひとつの作品が外部のネットワークの中に位置づけられることとは異なる)。


 「泉こなた平野綾涼宮ハルヒ」という系列は、この作品の中で、何度も繰り返される。『らき☆すた』が『涼宮ハルヒの憂鬱』の後に作られたことは、この作品の前提であると言える。涼宮ハルヒの声を担当しているのが平野綾であり、平野綾は『ハルヒ』の中で「God knows」を歌ったわけだが、この歌は『らき☆すた』の中でキャラクターとしての平野綾によって歌われ、その光景をこれまた平野綾が声を担当している泉こなたが見る(あるいは、泉こなたコスプレ喫茶ハルヒのコスプレをし、『ハルヒ』のエンディングのダンスを踊る)。こうした複雑な関係性を、おそらくほとんどの視聴者が、何の問題もなく一瞬にして把握することができたはずである。この関連性において結節点となっているのは「平野綾」という名前であるが、まさに、これこそが、作品にとっての外部の点であり、われわれは、知らず知らずのうちに、この外部の点を参照するように促されているわけである。


 同様の関係性は、「谷口−白石稔白石みのる」という形でも、繰り返されている。ここでの白石の位置づけはより複雑である。白石は、作品の中で、三つの位相の下に登場する。声優としての白石稔、「らっきー☆ちゃんねる」に登場するキャラクターとしての白石みのる白石みのるが本編で演じるキャラクターとしての白石みのるという三つの位相である(ここには、実写映像で登場する、白石稔という声優が演じるキャラクターとしての白石稔という第四の位相を付け加えてもいいかも知れない)。


 ここで何度も重ね書きされる「シライシミノル」という音は、作品の中に収まり切れない何か過剰な要素を指し示している。このことは、「くじら」と「立木文彦」という二人の声優の扱いについても言える。エンディングのスタッフロールに、この二人の名前が反復して列挙されていることは、単に、作中の様々なキャラクターに同じ声優が声を当てているという事実を指し示すのみならず、そこで名指された声優を非常に特別な地位に置くことになると言えるだろう(昔のアニメ作品では、主要キャラクターの声を担当している声優が、その他大勢のキャラクターの声も当てるということがしばしばあったが、しかしその場合、スタッフロールには、主要キャラクターとその声優しか書かない場合がほとんどだった)。


 こうした名前の扱いは、昔の作家が名前を反復させることを避けたという事実と比べるときに、より明瞭になるだろう。例えば、『機動戦士ガンダム』の主題歌の歌詞を作ったのは監督の富野由悠季だったわけだが、そのとき、彼は「井荻麟」という別の名前を用いた。また、「週刊少年マガジン」に連載されていた『巨人の星』と『あしたのジョー』の原作者は、両方とも梶原一騎であるわけだが、彼は『ジョー』の原作者としては「高森朝雄」という別の名前を用いた。何度も同じ名前が出てくるとすれば、その名前だけが他の名前から浮き上がってしまうだろう。『らき☆すた』においては、つまり、この効果を逆に利用したわけである。


 こうしたところに、『らき☆すた』のメタ構造の問題があると言えるが、そうした構造を十全に分析し、関連づけ、整理することは非常に難しいことである。アニメを見ることが、視聴者と作品との関係性のうちに閉じることなく、アニメを見ることが作品の中で取り上げ直されているのである。


 『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品は『らき☆すた』にとっては外部であるが、しかしながら、『らき☆すた』の中で『ハルヒ』を取り上げることで、『ハルヒ』を見た視聴者のことも対象化されている。さらには、ある点では、『らき☆すた』を見る視聴者のことが『らき☆すた』それ自体の中で対象化されているとも言えるだろう。このことは、作品を見るまなざしの問題、そして、作品の語り(作品の中で示される語りと作品を対象化する語り)の問題だと言えるが、こうした点については、次回以降、もう少しいろいろな作品を参照しながら問題にしていくことにしたい。