出来事のない世界――反RPGとしての『ゆめにっき』

言葉のない世界が生み出す言葉――ゲーム『ゆめにっき』について
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20090524#1243184056


 以前、フリーゲームの『ゆめにっき』について感想を書いたことがあったが、もう少し内容に踏み込んで書いてみたいと思ったので、ちょっと書いてみることにしたい。以前に書いたことと話が重複するところがあるかも知れないが、それでも書いてみることにする。


 以前、僕は、『ゆめにっき』について、「言葉のない世界」という観点から、そして、コミュニケーション(の不在)という観点から、この作品を問題にした。つまり、このゲーム内では、基本的に、(言葉による)コミュニケーションというものが存在しないのであるが、逆にこのコミュニケーションの不在が、ゲームの外で、このゲームのファンたちの間で、コミュニケーションを活性化させているのではないか(キャラクターに名前を与えたり、作品解釈をしたり、二次創作を行なったり、など)、ということを書いたのである。


 また、僕は、このゲームについて、「反ゲーム」というふうに書いたが、「反ゲーム」というのが言い過ぎだとしても、少なくとも、「反RPG」というふうには言えるのではないかと思う。そのときに問題になるのは、そもそもRPGとはどのようなものなのであって、そこで何が行なわれているのか、ということである。そうしたゲームの本質に関わることを、この反RPGのゲームが逆照射することになるのではないか、と思ったのだ。


 その点について再びちょっと書いてみたいと思うのだが、『ゆめにっき』において、言葉によるコミュニケーションが不在であるという点は、RPGというゲームジャンルを考える上で何か決定的な視点を提供しているように思える。つまり、RPGの世界においては、広い意味でのコミュニケーション、他の人間と何らかの形で関わることが問題になっているのではないだろうか。逆に言えば、『ゆめにっき』で提示されている世界は、主人公の他には人間が出てこない世界(人間的なキャラクターが多数登場するとしても)、他人と交渉したり関わり合ったりすることができない世界だと言える。


 それゆえに、『ゆめにっき』の世界は、まったくの孤独な世界だと言うことができる(孤独という状態が非常に特異な仕方で描かれている)。『ゆめにっき』の夢の世界は非常に広大である。しかし、その広大さは何か空虚なものを、満たされないものを満たしてくれるわけではない。むしろ、夢の世界が広大であればあるほど、主人公の少女の孤独が引き立つことになる。つまり、結局のところ、夢の世界の広大さと現実世界の少女の行動範囲(自分の部屋とベランダだけ)は、他の人間との交渉が存在しないという意味で、等価なのである(夢の世界はこれほどまでに広大なのに、彼女がどこかに行き着くことはない)。


 『ゆめにっき』においては、通常のRPGで描かれている、人間的なコミュニケーションが欠けている。あるいは、別の言い方をしてみれば、『ゆめにっき』には、イベントというものが存在しない。『ゆめにっき』には何の出来事も存在しない。


 ここで言う出来事とは、単に何かが起こるということではなく、世界に本質的な変化が生じるということである。世界の何かが変わり、世界がそれ以前とは異なったという、そうした意味での変化(不可逆的な変化)がもたらされるということ。そうした変化が『ゆめにっき』には存在しないのである。


 通常のRPGにおいては、変化というものは、大きく分けて、環境の変化とキャラクターの変化の二種類あることだろう。環境の変化というのは、物語が進行するということ、あるいは、イベントが進行するということであるが、単に主人公たちの行ける場所が広がるとか、出現する敵キャラが変わるということも環境の変化であるだろう。もうひとつの変化はキャラクターの成長、パラメータの変化であり、端的にはレベルアップとして表現されるものである。この二つの変化が、バラバラにそれぞれ独立して生じるのではなく、連動することになるという点が重要であるだろう。つまり、その場合には、自身の成長が環境の変化をもたらすことに役立つのであり、環境の変化がさらに自身の変化を促すこともあるだろう。こうした相互影響があるからこそ、RPGには何か進展のイメージがもたらされることになる。自身のキャラクターが成長するということと物語の進展とが連動するのである。


 RPGの醍醐味、あるいは、RPGによって満たされる欲望という観点からするなら、上記のように何かが進展・発展することだけがRPGにおいて満たされる欲望ではないだろう。RPGにおいて満たされる欲望という点においては、レアアイテムの蒐集などに代表されるようなコレクションの欲望というものも存在する。この蒐集の欲望は上記したような(世界の)変化とは必ずしも関係がない。蒐集することは蒐集することだけに意味があるのであって、(アイテムなどの)使用とは切り離される。ゲームシステム上は、何らかの環境を変化させるために(容易に敵を倒すことができるようになるなど)、そうしたレアアイテムの存在があるだろうが、単に蒐集の欲望を満たしたい人にとっては、取り立てて何か変化が起こる必要はないだろう。


 いずれにしても、こうした意味での世界の変化が『ゆめにっき』には乏しいのである。『ゆめにっき』の世界は、基本的に何も変化が生じることのない世界、出来事が何も起こらない世界だと言える。唯一ありうる変化というのは、「エフェクト」と呼ばれる、主人公の姿や動作を変化させる一連のアイテムを使用したときの変化であるが、これは、ほとんど蒐集して終わりになってしまうアイテムである。こうしたエフェクトを持っていないと起こらないイベントというものも存在すると言えば存在するのだが、それをイベントと呼ぶことにためらいがあるのは、そうしたイベントが何か他の出来事と関連し合うことがないからである。つまり、何か特別なことが起こったとしても、それはただそれだけで完結してしまう出来事であり、かつまた、それは何度でも起こすことのできる出来事なのである。それゆえ、こうした出来事が世界の変化に繋がっていくことはない。


 さらに、エフェクトを用いて、主人公ができることに注目してみよう。主人公は、言葉を用いて他人と話すことはできないわけだが、「包丁」のエフェクトを用いることで、夢の世界にいる住人たちを殺すことはできる。しかし、そんなふうに誰かを殺したとしても、その殺したという事実が他の諸々の事象に影響を与えることはない。殺したという事実は殺したという事実それ単独で留まり、それ以上の何ものでもなくなる(殺した事実がパラメータの変化などをもたらすことはない)。さらに言えば、誰かを殺したとしても、その人物はすぐに復活することになるから、究極的には、それを殺人行為と呼ぶことすら難しい。単に一時的にそのキャラクターが世界の中から消えるというだけの話である。


 ちなみに、『ゆめにっき』では、夢の住人たちを殺すと、お金が手に入ることがある。これは、RPGにおいては、ある種、当たり前になった感覚である(敵を倒すとお金が手に入る)。しかしながら、『ゆめにっき』において、お金を使用できる機会があるのは、唯一、ジュースの自動販売機だけであり、そのジュースを飲むと主人公のライフが増えるのだが、そのライフがこのゲーム上で何か意味を持つことがないので(敵からダメージを受けるなどということがこのゲームにはない)、結局のところ、お金を獲得することにも意味がないことになる。


 包丁の使用の話に戻ろう。前にも書いたことであるが、この包丁で誰かを殺すという行為が、『ゆめにっき』においては、ほとんど唯一のコミュニケーション手段だと言える。誰かを殺すことは、存在のネットワークとでも言うべきもの(人間においては社会関係など)に大きな影響を与えることになるわけだから、何か大きな変化を起こすための手段となりうる。だが、『ゆめにっき』においては、誰かを殺しても何の変化も生じないし、誰かと話す代わりに誰かを殺すことになっているとしても、誰かを殺してしまえばその人物とはもはや何も交渉することができないわけだから、殺すことはまさにコミュニケーションの終わりを意味すると言える。


 エフェクトには、包丁以外にも、夢の世界の住人たちに干渉することができるものがある。それは、例えば、「猫」や「信号」といったものである。「猫」は夢の住人たちを主人公に引き寄せることができ(つまり招き猫)、「信号」は夢の住人たちの動きを停止させたり再び進めさせたりすることができる。こんなふうに他のキャラクターたちに干渉することができるとしても、そのことが結果として他に何の影響も生じさせないとすれば、そのような干渉行為にも、包丁による殺人行為と同様、ほとんど何の意味もないと言える。


 こうしたことから逆に考えると、通常のRPGにおいては、誰かと言葉を交わすことによって、出来事を生じさせ、世界に大きな変化をもたらすことがゲームの醍醐味になっているところがあると言える。そして、そこで生じた変化は言葉によって語られる必要がある。つまり、意味が付与され、物語化される必要がある。こうした意味付与のプロセスを『ゆめにっき』は決定的に欠いているのである。それゆえにこそ、物語化や意味付与の過程は、このゲームをプレイした人に、さらには、このゲームのファン共同体に委ねられることになるのである(とりわけ、主人公の少女の現実生活を想像し、夢の世界の諸断片を結びつけることによって)。


 『ゆめにっき』の世界は関係性というものが存在しない世界だと言えるかも知れない。これは、つまり、夢の世界が現実世界とほとんど何の関係も持っていないということである。『ドラゴンクエスト6』のように、夢の世界で起こった出来事が現実世界に影響を与えるといったような、二つの世界の間での影響関係というものは存在しない。『ゆめにっき』の少女が現実世界でほとんど何もすることができない以上、夢を見ているだけでは、そこにはほとんど何も変化は生じないのである。


 つまり、もっと言えば、主人公の少女は、夢の世界にとっては、亡霊のような存在だと言える。少女は夢の世界の構成員ではない。彼女は外の世界からやってきた人物、夢の世界には存在しない人物である。その世界に内属していないからこそ、彼女は世界と関係することができない。つまり、世界に何も変化をもたらすことができないのである。


 『ゆめにっき』は「RPGツクール」というRPG制作ソフトを用いて作られているようであるが、まさに、RPG制作ソフトによって与えられた基本的な枠組みが、このゲームを反RPGにしている大きな原因であるように思える。これは、つまり、『ゆめにっき』という作品にもっと相応しいゲームジャンルなりゲームシステムなりが他にありうるのではないか、ということである。しかし、それがどんなゲームジャンルなのかはよく分からないし、むしろRPGという枠組みが(つまり形式と内容とのある種のズレが)この作品に独特な魅力を付与することになった原因なのではないかとも思うのである(このゲームをRPGのようにプレイしてみたくなるからこそ、通常のRPGとの様々なギャップが際立つことになる)。


 こんなところでひとまず『ゆめにっき』に対する考察を終わりにしたい。ゲームに対する興味は他にもいろいろと持っているので、それはいずれ別の形で展開してみたいと思っている。




(関連する過去の記事)
暴力とコミュニケーション(その3)――秋葉原無差別殺傷事件と加藤智大について
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20090124#1232813402