世界−社会=「私」



 前回からまた時間がかなり経ってしまったので、まずは、前回までの話題をまとめてみたい。


 前回まで僕が問題にしていたのは、承認を巡るギャップの問題、部分的な承認と全的な承認とのギャップの問題である。「私」の存在すべてを認めてほしいにも関わらず、他人から得られるのは、常に、「私」の部分的な能力や性格に対する承認だけである。この部分的な承認をいくら積み重ねても全的な承認に行き着くことはない。この亀裂がわれわれを多重人格的なものにする、というのが前回の議論だった。


 このギャップ(亀裂)は、主体としての「私」と対象としての「私」との間のギャップと言い換えることができるかも知れない。対象としての「私」とは、部分的な属性としての「私」、他人や自分から見られる存在としての「私」、いくつかの能力や性格を持った、あるいは、持たない存在としての「私」である。問題は、こうした「私」に還元することのできない「私」の水準、統覚としての「私」の水準がどこかにあり、それを一挙に掴むことができないということである。こうしたギャップは、他人から必要とされている「私」と必要とされていない「私」とのギャップというふうにも、言い換えられるかも知れない。


 さて、あまり一般的な議論ばかりしていても面白くないので、ここでちょっと、現代のアニメに目を向けてみたい。最近のアニメ作品(サブカル作品)には、それまでの作品にはないプラスアルファの要素がある。もっと正確に言えば、物語や設定などは、それまでの作品にも見られたものであるが、そこに独特のアクセントが置かれているのである。それは、ある人物との親密な関わり、深い絆、二人の登場人物の間の関係の重視といったものである。


 物語は平凡で、どこかで見たことがある。しかし、そうした作品が新しい色づけをなされて提出されている。その色づけとは、個人の重視、「私」の重視、物語よりも「私」の気持ちが重視されている点にある。


 例えば、バトルもののパートナーという存在がそれを示している。昔から、男の子向けの作品で、主人公が様々な敵と闘っていくバトルものというのはあっただろう。しかし、今日的な色づけは、そこでのバトルが、主人公とそのライバルとの一対一の勝負というよりも、主人公が誰かとパートナーを組んで敵と闘う、そうした話に移行しているという点である。


 もちろん、そんなふうに、誰かとパートナーを組んで敵と闘うという話も昔からあったことだろう。問題は、そうした作品があったかなかったか、ということではなく、現在の作品に共通して置かれている独特のアクセントを検討していくことである。そうして、そこから、逆に、昔の作品も、新しい視点の下で、再生してくることになるだろう。


 さて、パートナーとの関係に焦点が当たるようになると、従来からあるような物語も別の様相を呈してくる。つまり、主人公とその敵との確執というのは、問題としての優先順位が下がり、むしろ、そのパートナーとの感情のやり取りのほうが、重要な問題になってくるのである。以前、このブログにも書いた『陰陽大戦記』がまさにそのような作品だろうし、『レジェンズ』もそのような作品だろう。そして、この前、少し触れた『エレメンタルジェレイド』もそのような作品である。


 作品名を上げればいくらでも出てきそうなので、注目に値する作品を上げると、それは『GUNSLINGER GIRL』である。この作品のパートナー、二人一組とは、諜報官の男性と彼に使われる少女である。


 この作品が描いているのは、ある国の諜報機関に雇われた少女たちの生活である。この作品に出てくる少女たちは、小さい頃に様々な外傷体験を受けた少女たち、傷を負った少女たちである。主人公のヘンリエッタも、両親を殺され、彼女自身も傷つけられた過去を持っている。そんな彼女たちに第二の生を与えたのが、「福祉公社」と呼ばれる政府機関なのだが、「福祉」というのは名ばかりで、実際にやっていることは、そんなふうに絶望的な境遇にある少女たちを見つけてきて、「義体」と呼ばれる人工的な肉体を与え、様々な諜報任務(要人の暗殺など)をやらせるのである。つまるところ、彼女たちに求められているのは、過酷な任務を忠実にこなすための道具としての身体だけなのである。


 しかし、こんなふうに、ある種、不自由な生活を強いられている彼女たちではあるが、彼女たちは、自分たちの生活を惨めだとは思っていない。今の生活のほうが今までよりもずっとましだと思っている以上に、現在の生活を意味あるものと考えている。そこで重要になってくるのが彼女たちひとりひとりに付いている諜報官である。諜報官と少女とは、二人一組で行動する。訓練や様々な指導を行なうのも、この諜報官なのである。こんなふうに、自分に親身になってくれる人がいるということが、彼女たちの生活に充実感を与えてくれるのである。


 それゆえ、ここに見出すことができるのは、ひとつのギャップである。彼女たちのやっている仕事というのは、そのほとんどが人殺しである。しかし、彼女たちは、そのような殺人の仕事に対しては、何の感情も持ち合わせていない。そこで重要なのは、上手く仕事をこなせるかどうかということ、自分の指導官の期待に添うことができるかどうかなのである。


 このギャップは、世界に対する意味づけを大きく変化させるものである。彼女たちにとっては(彼女たちの世界には)、政府と反政府組織との対立といった社会的な問題というのは存在しない。彼女たちは、自分たちがなぜ人を殺さなければならないかということを自問することはない。彼女たちにとって、それは自明のことである。つまり、自分の指導官がそれを望むから、人を殺すのである。


 自分のパートナーとの感情的な繋がり、これが彼女たちにとっては、世界のすべてなのである。おそらく、『GUNSLINGER GIRL』を見た人は、少女たちの冷酷さと純粋無垢さとの間のギャップに驚くことだろう。このギャップが彼女たちにとって矛盾にならないのは、社会道徳というのが彼女たちにとっては無縁の存在だからである。彼女たちにとっては、ただただ、自分の指導官の存在が絶対であるというだけなのだ。


 いったい、われわれの生にとって、何が重要なのかと言ったときに、社会的な問題よりも個人的な問題のほうを重視するという人はたくさんいることだろう。別段、ここには、社会的な問題か個人的な問題かという二者択一は存在しない。どちらも重要であるということは言える。しかし、例えば、TVのニュースなどで語られている社会問題と自分の日常生活の問題とを比べたとき、それは、どうだろうか? 両者の問題が無関係ではないとしても、社会的な問題を解決すれば、個人的な問題も解決すると果たして思えるだろうか? 社会問題は社会一般の問題であるが、個人の問題は「私」だけの問題である。そんなふうに多くの人は思っているのではないのか?


 今日のサブカル作品は、このギャップを描き出し、そこで孤立している「私」というものに注目する。「私」と世界との関係性が最重要の問題となっているのである。次回は、この「私」のあり方を、もっと追究していきたいと思う。