日常の彼方としての異世界



 前回は、世界、社会、「私」という三つのタームの諸関係を扱った。今回も、これら三つのタームの諸関係を扱っていきたい。


 ここで僕が問題にしたいこと、それは、現在のわれわれの世界観、現在の様々なサブカルチャー作品に見出すことができる世界観とはどのようなものであるか、ということである。例えば、それは、新海誠の『ほしのこえ』で述べられていたような「携帯の電波の届く場所」としての世界のことである。問題となっていることは、世界が小さくなっているということではなく、世界が二分しているということである。


 二分した世界、それは、「私」が関わる日常生活の世界とその外部の世界という二つの世界である。自分の知っている世界、自分が肌で感じられる世界が限定されればされるほど、その外の世界というものがくっきりと輪郭づけられて現われてくることになる。


 問題は、この二つの世界が地続きではなく、それぞれ別個に、ある種の距離をもって存在していることである。こちらの世界とあちらの世界の二つがあったときに、こちらとあちらとは、ひとつの通路のようなもので繋がっているだけで、本質的には分離している。そんなふうに感得されているのである。


 このような二つの分離した世界を考えるにあたっては、様々なサブカルチャー作品に見られる「異世界」の地位というものを考えてみればいいだろう。われわれの世界から異世界に行くためには、何らかの特殊な通路を通っていかなければならない。それは、門であったり、洞窟であったり、空間に開いた穴であったりする。そのような世界の亀裂を通して、われわれは、異世界と繋がることができるのである。


 例えば、宮崎駿の『千と千尋の神隠し』のことを考えてみよう。この作品で、主人公の千尋は、洞窟を通って、異世界へと向かう。そして、最後にはまた、その通路から、元の世界に戻ってくるわけである。入口があって、出口がある。これこそが、われわれが通常理解している異世界の地位ではないだろうか?


 そして、しばしば、そうした異世界へと行く作品が描いているのは、次のようなシナリオである。主人公は、現実世界において、様々な問題を抱えている。そうした問題からの一種の逃避として、主人公は、異世界へと向かう。その異世界で、主人公は、様々な特殊な経験をすることで成長する。かくして、主人公は、現実世界に戻ったとしても、様々な問題に立ち向かうことができるようになった、というものである。


 このようなストーリーにおいて異世界が果たしている機能とは何だろうか? それは、一種の避難場所、主人公が様々な現実的な問題に対処できるように、教育や訓練を施してくれるような場所である。それは、一種の療養所や病院のような役割を持っている。従って、ここでのキーワードは「成長」というものである。成長という要素こそが、こうしたファンタジー作品を、道徳的教訓話に仕立て上げるものなのである。


 僕は、実のところ、こうしたストーリーに対してはかなり不満を持っている。こうしたストーリーは一種のイデオロギーであり、神話であるだろう。現在のサブカルチャー作品を概観したときに現われてくるのは、こうした典型的なストリーに対する違和感であり、反感である。そこでは、同種の物語が展開されているが、そうした物語をずらそうという試みも同時になされているのである。


 ちょっと視点を変えてみれば、このような世界観は、われわれの日常生活に溢れかえっている。例えば、海外へ行くという試みが持っている意味合いというのは、そのようなものではないだろうか? それは、とりわけ、バックパッカーと呼ばれる人々、特に目的も目標もなく、行き当たりばったりで旅をする人たちが持っている欲望ではないだろうか? そこにあるのは特殊な経験を得たいという欲望である。そうして、その特殊な経験が自分自身を養い、自分自身を成長させるというストーリーがそこにはある。


 典型的、かつ、きわめて皮肉な例は、昨年イラクでテロ組織の人質になり殺害された香田証生さんの事例ではないだろうか? 実際に香田さんが何を考えてイラクに行ったのかは分からないが、次のような推測をすることは可能だろう。つまり、彼は、まさに、異世界への通路を求めていたのではないか、と。彼は、イラクに行く前に、オーストラリアにいたわけだが、なぜオーストラリアで満足できなかったのか? それは、まさに、オーストラリアでの彼の生活が、単なる日常生活になってしまったからではないだろうか? 初めは新鮮に感じられた海外での生活も、慣れてくれば次第に、退屈なものに感じられてくることだろう。その上、オーストラリアは先進国であり、都市部の生活はおそらく、日本とそれほど大差ないものであろう。その点、イラクには、戦争がある。極めて危険で特殊な状況がそこにはあるわけである。香田さんの目には、イラクが、そんなふうに特殊な経験を与えてくれる場所として映ったのではないだろうか?


 以上のことは、あくまで推測であり、実際のところは分からない。しかし、こうした欲望が一般的に存在していることは間違いないだろう。自分の価値観をがらりと変えてくれるような特殊な経験、誰も味わったことがないような特殊な経験、退屈な日常生活を光り輝くものに変えてくれる緊張感のある充実した生活。そのようなものを求める傾向は一般的に存在するのではないだろうか?


 キーワードは、退屈な日常生活という言葉である。昨日と同じように今日がやってきて、今日と同じように明日がやってくる。こんなふうにのっぺりとした日常生活が永遠に続く状態。そうした状態に耐えられない人たちがたくさんいるのではないだろうか? この問題は、宮台真司が『終わりなき日常を生きろ』で述べた問題であり、この本がオウム事件の後に書かれたことを考えると、こうした問題は、80年代以降、ずっと続いていることが分かる。そして、それと並行するかのように、80年代以降のサブカルチャー作品も、異世界を巡る様々な問題を提起し続けているのである。次回は、この異世界という観点から、様々なアニメ作品を分析してみたい。