矢沢あいの世界、あるいは、中心的欲望の欠如



 前回は、一人称の「私」に特有の存在様態について、「私」の二面性について問題にした。「私」の存在は、誰もが同じように「私」と言う点で、特権的なものではない。それは、他の人と交換可能である(その点で「私」には特別の価値はない)。しかし、この「私」の存在は、「私」固有のものでしかないという点では、特権的なものである(他の「私」とこの「私」とを交換することはできない)。こうした分裂が今日の様々なサブカルチャー作品に見出されるということを、前回は問題にしたわけである。


 一連の論考の出発点となった鈴木謙介の本(『カーニヴァル化する社会』)のことを思い出してみたい。そこで問題となっていたのは、「ハイ・テンションな自己啓発」と呼ばれる自己高揚感であり、同様の高揚感は、様々な「祭り」によっても引き起こされるものであった。


 こうした高揚感と欲望との関係はどのようなものだろうか? つまり、多様な欲望が存在し、そのどれが自分の本当の欲望なのかはっきりしないときに、高揚感はどのような役目を果たすのだろうか?


 ここで重要なことは、いったい自分が何を欲望するのがベストなのか、それが明確に定められていることである。問題が起こってくるのは次のような場合である。現在の状況において、どのように振る舞うことがベストなのか、明確に定められているにも関わらず、そのような振る舞いを行なう欲望を自分が持っていない、という場合である。


 芥川龍之介の『侏儒の言葉』の中に次のような文章がある。

 わたしは小学校の読本の中に二宮尊徳の少年時代の大書してあったのを覚えている。貧家に人となった尊徳は昼は農作の手伝いをしたり、夜は草鞋を造ったり、大人のように働きながら、健気にも独学をつづけて行ったらしい。これはあらゆる立志譚のように――と云うのはあらゆる通俗小説のように、感激を与え易い物語である。実際又十五歳に足らぬわたしは尊徳の意気に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかったことを不仕合せの一つにさえ考えていた。(新潮文庫、33頁)。

 ここで問題となっているのは欲望である。芥川が尊徳の中に見出したもの、芥川が羨ましいと思ったものとは、尊徳の欲望である。一日中労働して、その上、なおかつ、勉強までするということ。そうした激烈なエネルギーの源にある欲望を芥川は欲したのである。


 なぜ、芥川は、こうした欲望を欲したのか? それは、何よりも、彼が学生だったからに他ならない。つまり、勉強することがそこでは求められていたわけである。そして、想像するに、芥川は、尊徳のように熱烈に勉強するという欲望を自分の中に見出してはいなかったのだろう。彼は、尊徳のように熱狂的に勉強する(将来の)自分自身の姿に魅惑されていたのではないのか?


 こうした欲望の問題は、今日の様々なサブカルチャー作品にも見出すことができる。前回少し取り上げた矢沢あいのマンガ『NANA』を再び取り上げてみよう。


 この作品の主人公は、二人のナナ(小松奈々と大崎ナナ)であるが、真の主人公は、やはり、ハチ(小松奈々)のほうだろう。二人の関係は非対称的である。つまり、この作品に描かれているのは、現代人のライフスタイルを代表する二人の女性というよりも、ハチがナナとの間に感じ取った距離ではないだろうか?


 補助線として、矢沢あいの別の作品である『パラダイスキス』を取り上げてみよう。この作品のモチーフとなっているのは、おそらく、「白雪姫」のようなファンタジー童話(メルヘン)である。つまり、白馬に乗った王子様(ジョージ)が悪い魔女(ゆかりの母)のせいで危機的な状況にあるヒロイン(ゆかり)を助けに来てくれるというストーリーが、現代風の装いの下、再現されているわけである。


 この作品の現代的なところとはどこか? まず言えることは、「王子様がヒロインを助けに来てくれる」というヒロインの受動的な態度が否定されているところである。つまり、主人公の早坂紫(はやさか・ゆかり)は、母親の言いなりになる形で、進学校に通い、勉強の日々を送っていたわけだが、服飾の専門学校生であるジョージたちにモデルになるよう呼びかけられることによって、自分のそれまでの(受動的な)生活に疑いを持ち始めるのである。そして、その結果、彼女は、人に言われるがままに何かをするのではなく、自分で何かを選んで決めていくという能動的な(自立した)女性に変わっていくのである。


 『パラダイスキス』において、受動性/能動性が重要な価値基準になっているのは間違いないだろう。ジョージの母親が誰かに依存しないと生きていけないダメな女性として描かれているのがそのひとつの証左である。ジョージの母親と出会うことによって、紫は、自分のこれまでの態度を反省するのである。


 こうした点で、『パラダイスキス』は、サクセスストーリーであると同時に、成長物語でもある。注目すべきは、この「成功」と「成長」の二点に、ファッション業界というワンダーランドが介在しているところである。つまり、これは、この作品の『不思議の国のアリス』的なところであるのだが、平凡な女子高生が未知の世界に入りこむことによって(今まで得られなかった体験をすることによって)、何らかの変化を被るという要素がここには見出せるのである。


 さて、『NANA』のほうに話を戻すと、『NANA』においても、以上のような要素がそっくりそのまま見出されるのである。しかし、もちろん、そこには、いくつかの変更がある。大きな違いは、『パラダイスキス』においては、紫というひとりの女性に起こったことが、『NANA』においては、ナナとハチという二人の女性の間の距離として描かれているところである。


 『NANA』におけるワンダーランドとは、ナナの属している世界、音楽の世界である。この世界は、平凡な女性であるハチにとっては、TVの向こう側の世界でしかない。こうした未知の世界に、ハチは、ナナを介して、関わることになるわけだが、ハチ自身が音楽活動をするわけではない。従って、ナナの世界は、ハチにとっては、依然として、あちら側の世界なのである。


 受動的態度/能動的態度についてはどうだろうか? これもまた、それぞれの特性は、ハチとナナに振り分けられている。ナナがしっかりとした夢を持って充実した毎日を送っているのに対して、ハチのほうは好きな男性に依存するという生活を送っている。ハチの行動原理とは、恋愛に生きるということ、好きな男性に依存するということである。ナナもハチも、地方から上京して来たわけだが、その理由が対称的である。ナナはバンド活動のために、ハチは彼氏の近くにいるために、それぞれ上京して来たのである。


 この作品の主人公がナナではなくハチだと考えられるのは、そこで、ハチがナナに対して抱かれる距離感が重要だと思われるからだ。この点は、『パラキス』と対照的である。というのも、『パラキス』においては、ダメな主人公が未知の世界に触れることによって成長するという物語がそこにあったわけだが、『NANA』にあるのは、自分とナナとの間にある距離を実感することによって明確になるハチのダメさ加減だからである。


 第5巻で、仕事をクビになったハチが、缶コーヒーを飲みながら、街中で考えこむシーンがある。そこでの独白を以下に引用してみよう。

のどが渇いたら 110円でコーヒーは飲める
だけど あたしは かわいいカフェで お茶をするのが好き
おしゃれな部屋に住みたい
流行りの服が着たい
話題の映画が観たい
最新の携帯に替えたい
車の免許が取りたい
海外旅行に行きたい
だから仕事を探さなきゃ がんばって働かなきゃ
その為だと思えば楽しいじゃない
まだ足りないの?
どれだけ沢山 沢山欲しい物を思い浮かべても
ここから立ち上がる気力さえ湧いて来ない
たった ひとつでいいのに
夢中になって走り出せるものが
あたしにも あればいいのに

 ここには、今日的な欲望の問題が凝縮されて提示されている。自動販売機で買える缶コーヒーからカフェで飲むコーヒーへの移行というのは、消費的な水準における欲望の上昇である。そこでは、単に、どのような物を消費するかということだけが問題になっているのではなく、そうした消費の全体から浮かび上がってくるライフスタイルも問題になっている。ハチが自分自身に向かって訴えかけようとしているのは、まずは、そのような消費生活への欲望である。しかし、この欲望には決定的に足りないものがあるというのがハチの認識である。それらの消費欲望は部分化された欲望であり、そうした欲望を全体化する中心的な欲望がそこでは欠如しているのである。


 ハチの言う「夢中になって走り出せるもの」を持っているのが、他ならぬ、ナナである。ナナは、バンドマンとして成功するという夢を持っている。ハチにとって、こうした夢の代わりになるものは恋愛である。上の独白のあとに、ハチの憧れるバンドのメンバーであるタクミから電話がかかってくることからも明らかなように、ハチにとっては、自分の生活を色鮮やかなものにしてくれるのは恋愛であり、その依存度は、そのように自分の生活を色鮮やかなものにしてくれるから恋愛をしているとまで言えるほどである。


 こうした依存という側面から浮かび上がってくるのは、鈴木謙介も言及している「嗜癖」への傾向である。アル中が典型的であるが、自分の生活の中に句読点を打つ何かを支えとして欲してしまうのである。こうした嗜癖は宗教的な儀礼行為に似ているが、それはさておき、ハチもまた、こうした嗜癖に溺れる人間、一種のメンヘラーとして捉えられるのではないだろうか? もし、ハチが決定的な失恋をして、「もう二度と恋愛などしたくない」などと思い始めたなら、彼女は、おそらく、恋愛とは別の何かに病的に依存し始めることだろう。


 このように『NANA』という作品を見ていくことによって明らかになる問題、それは、非常にベタな問いであるが、やはり、何のために自分は生きているのか、というものではないだろうか? そこで求められているのは、自分の人生にまとまりを与える一本の軸のようなものである。


 このように考えるのであれば、しばしば、ナンバーワンと対比して語られるオンリーワンというものも、そのような人生の軸を指しているのだろう。それが意味していることは、「私」の生の充実、「私」の生を「私」自身によって最大限に享受することである。そして、そうした軸を探し求めることが「私探し」と言われているものなのだろう。


 僕自身の考えを述べれば、何らかの目標を設定し、その目標の実現を夢見ることで、自己を煽り立てるというやり口には、限界があるように思える。前回も少し述べたが、今日の問題とは、モデリングが上手く機能しないところにあるのではないのか? こういう観点から見るのであれば、『ドラゴン桜』のような作品は時代に逆行していると言えるが、それでもなおかつ、上昇志向を煽っているのは、モデリングの代わりとなるようなものが他に思い浮かばないからだろう。


 今日的な問題を自由と隷属という言葉で切り取ることも可能かも知れない。先に引用した芥川龍之介の文章の最後で、彼は「丁度鎖に繋がれた奴隷のもっと太い鎖を欲しがるように」ということを述べていた。つまり、人間は、自由よりも隷属のほうを好むというわけである。だが、現代という時代は、それほど自由な時代なのだろうか? 様々なリスクを自己責任で選び取るというところにだけしか自由はないのだろうか? 次回は、いったい何がわれわれの想像力を不自由なものにしているのか、ということを考えてみたい。