『孤独のグルメ』と現代人の生活(その7)――これまでの文脈、われわれの欲望を構成する都市の風景

 この『孤独のグルメ』論は、『ぼくらの』論を引き継ぐ形で始めたわけだが、そもそもどのような動機から『ぼくらの』という作品を問題にし始め、そこからどのように問題を『孤独のグルメ』へと移行させていったのかということについて、ここで改めて確認しておくことにしたい。


 まず、そもそも何を問題にしたかったのかと言えば、それは、近年のアニメ作品(あるいはマンガ作品)を見たときに、そこで二つの人間関係、つまり、家族的関係と競争的関係が対立させられていて、そのうち、ことさら前者の関係のほうを重視するという傾向が見受けられたので、そこでの家族的関係の重視という傾向を批判し、そこから、さらに、そうした二つの関係の対立図式それ自体を批判し、そうした対立図式とは別のヴィジョンを提示したかったのである。


 従って、『ぼくらの』論で、僕が、家族的関係よりも競争的関係のほうを重視しているように見えたとしても、そのこと自体が目的ではなく、そもそも、そうした対立図式とは別の視点というものを提示したかったのである。このことは、この『孤独のグルメ』論についても言えることで、孤独というものは、確かに、家族的関係と対立する概念であるが、しかしながら、単純に、「家族を形成するよりも孤独であるほうがいい」ということを言いたいわけではない。むしろ、われわれの持っている家族についての様々なイデオロギーの根幹を孤独という視点から照射できないものか、と思っているわけである。


 家族的関係と競争的関係との対立という構図が問題なのは、こうした対立図式は、まさに、前者の関係を重視するために、あえて提示されているところがあるからである。映画『バトル・ロワイアル』で端的に示されているように、そこで問題となっていることは、競争的関係のただ中で、つまり、自分以外はすべて敵という状況にありながらも、いかにして、協力的な人間関係を作っていくか、ということだからである(自分の生徒たちに容赦なく殺し合いをさせる教師のキタノが自分の娘との人間関係に悩んでいたというエピソードは象徴的である)。


 家族的関係は競争的関係の脱出口(解決策)になりうるが、しかし、それですべてが解決するわけではないということを示していたのが、アニメ『ローゼンメイデン』という作品ではなかっただろうか? 特に、その続編である『トロイメント』で示されるのは、バトルロワイアル状況を可能な限り先延ばしにしようという急場しのぎの策と、そうしたモラトリアム状態に対する不安と焦燥である。本当は敵同士であるはずのドールたちがひとつの食卓を囲んで食事をする。しかし、その先には、避けることのできない闘いが待っている。それならば、一刻も早く、闘いを行なって、決着をつけたほうがいいのではないか? 蒼星石というドールを突き動かしたのは、このような不安と焦燥だったろうし、結果、彼女が闘いに負けてしまうことは、家族的関係か競争的関係かの二者択一という構図それ自体に問題があることを示唆していることだろう。


 『ローゼンメイデン』では、ひきこもりの少年が出てくるが、まさに、ひきこもりの問題それ自体が、こうした家族的関係の重視という解決策の不十分さをあらわにしていることだろう。例えば、斎藤環の『社会的ひきこもり』という本が示していることは、ひきこもりになった者が家族の中で孤立するという自体だけでなく、ひきこもりを抱えた家族それ自体が世間から(つまり、親のレベルでの人間関係のネットワークから)孤立するという事態である。斎藤環は、「個人/家族/社会」と、三つのレベルで事態を分節化しているが、重要なのは、家族内での個人の孤立よりも、社会(世間)内での家族の孤立にあると言えるだろう。つまり、地域共同体の機能不全の結果、家族が孤立し、さらに、その皺寄せが個人のレベルにも波及していると考えられるのである。


 地域共同体が持っていた相互扶助の機能が、ある限定された人間関係と家族の中でしか働かなくなっているということ。そうした状況において家族関係を重視することは、われわれの社会状況の変化(それを近代化と資本主義の発展と呼ぶことができるだろう)を視野の外に置き、公共性のレベルや行政のレベルを無視することに繋がることだろう。ここにおいて、顔の知らない他人との関係という次元が問題になってくるわけであるが、つまるところ、こうした次元を、僕は、『ぼくらの』や『孤独のグルメ』という作品を通して問題にしたいと思っているわけである。


 顔の知らない他者との関係を強制するもの、それを、僕は、この『孤独のグルメ』論で、ひとまず、「都市」と呼んだ。井之頭五郎が、ぶらりと店に入ることによって、関係を結ぼうとしているのは、こうした他者の存在であるだろう。そうした他者とは、自分の横を通りすぎる人たちのことであり、自分と関係することなくただそこにいる人たちのことである。そうした人たちは、ある時は、自分にぶつかってきて謝りもせずに立ち去っていく人たちのことであるし、またある時は、突然の雨に困っていると傘をそっと渡して立ち去っていく人たちのことである(またある時は、われわれを自動車で跳ね飛ばしたり、ナイフで突き刺したりする人たちのことである)。


 『ぼくらの』という作品は、間違いなく、こうした人たちのことを考慮に入れている。一方で、そこで提示されているのは、人の命には優先順位をつけることができるという考えである。つまり、顔の知っている人間のほうが顔の知らない人間よりも価値がある、ということである。しかしながら、だからといって、家族を守るためならば積極的に他人を殺すべきだという考えを全面的に肯定しているわけではないだろう(少なくとも僕はそう読んだ)。むしろ、そこで暴露されているのは、家族的関係の重視とは、顔の知らない他人を殺すことと同義であり、そのような犠牲の上に成り立っている(つまり責任の伴う)選択的行為なのだ、ということである。


 最近、水島宏明という人が書いた『ネットカフェ難民と貧困ニッポン』という本を読んだが、ここで描かれている人たちのことを孤独な人たちと呼ぶことはできるだろう。しかしながら、こうした人たちを孤独にしたものとは何かと問うときに、そこで、個々人の生まれや育ち、個々人の性格や資質といったものを問題にするよりも、われわれの置かれている社会状況というものにもっと注目してもいいのではないだろうか?(本の中では親からの虐待というものが、ある種の原因として指摘されているが(それゆえネットカフェ難民になっても家族を頼ることができない)、そもそも、児童虐待というものが発生する社会的な条件(親の性格や育ちではなく)というものも考える必要があるだろう)。


 ネットカフェ難民を可能にさせる様々な社会的条件。例えば、ネットカフェ、日雇い派遣労働(制度的には労働者派遣法の改正)、コインロッカー、コインランドリー、ファーストフード店、コンビニ、消費者金融、携帯電話、等々。こうしたものは、すべて、人々を個別的な欲望の水準に組織化するものだと言っていいだろう。


 もちろん、これらの道具を、コミュニケーション・ツールとして用いることはできるだろう。ネットにしろ携帯電話にしろ、そこから世界が広がっていると言えば広がっている。しかしながら、同時に、そうした広がりから自分自身を切り離すことも非常に容易である。携帯の番号やアドレスを変えれば(あるいは、物理的に、携帯の電源を切れば)、他人とのコミュニケーションを瞬時に立ち切ることが可能であるだろう。


 僕は、別段、コミュニケーションしないのが悪いと言っているわけではない。個々人の欲望がそのような制度(社会的条件)によって養われ育まれるところがある、と言いたいのである。この点で、家族的関係の重視という解決策が今日の日本社会のひとつの帰結であるのならば、それと同時に、孤独な人間の産出というのもまた、今日の社会のひとつの帰結だと思うわけである。


 制度や社会的条件を無視することは、問題を容易に個人的なレベルに、いわゆる「自己責任論」にすべてを還元することに繋がるだろう。自己責任論の強力なところは、個々人の欲望を問題とするところである。2008年3月号の『論座』に面白い記事が載っていた。それは、『「丸山真男」をひっぱたきたい』というエッセイで有名になった赤木智弘の文章である。

週刊朝日」(07年12月7日号)に、作家の高橋源一郎による『若者を見殺しにする国』の書評が掲載されている。この中で高橋は「『丸山真男』をひっぱたきたい」を大学の授業で取り上げ、学生たちに感想文を書かせたところ、「学生たちの感想は予想通り、激しい嫌悪感を伴う拒否が六割、ある程度理解はできるが論旨は肯定できない、が三割、残りの一割はバラバラ」だったとしている。
 多くの学生が、私の文章のどこに嫌悪感を示したのか。高橋はこう記している。「嫌悪した学生たちは、共通して、アルバイトから帰宅して酒を飲みネットサーフィンをしテレビを見る、という繰り返しが続く赤木さんの生活に反応した。そして、彼らは一様に『努力していない』とか『頑張ればいいのに』とか『他人のせいにしている』とか『資格をとる勉強をするべきだ』とか言うのである」。つまり学生たちは、貧困に対する「自己責任論」ともいえる考え方を、私に投げ返しているわけだ。
(「誰に、希望をつなぐのか」、上記の『論座』、204頁)

 ここで問題になっているのは、まさに、欲望の水準である。赤木は、言ってみれば、素直に、自分自身の欲望を認めているわけだが(「なるほど、たしかに私が怠惰であることは間違いない」)、むしろ、こうした欲望に対して葛藤を抱いている人であれば、そのことが自己嫌悪へと発展し、自ら進んで自分自身の努力のなさを認めるところにまで突き進んでいくことだろう。


 問題が精神論のレベルに留まるのなら、そこには、何の発展性もないことだろう。それでは、二宮金次郎の神話や「欲しがりません勝つまでは」あるいは「贅沢は敵だ」という(戦時中の)スローガンのレベルと何の変わりもないことだろう。もちろん、個々人のレベルではそうしたことはいくらでも言えるだろうし、場合によったら、何らかの効果もあるかも知れない。しかしながら、そこから議論を根本的に展開させるのであれば、個々人のレベルを超えたそれよりも上位のレベルに常に目を向けるべきだろう。


 こうした点で、僕がこの『孤独のグルメ』を評価するのは、この作品が優れた都市マンガだからである。それは、ただ単に、都市を舞台にしたマンガだというだけでなく、積極的に個人を消し去ることによって、都市そのものを浮かび上がらせることに成功しているからである。つまるところ、そこには、制度の問題があり、社会の問題がある。谷口ジローの描く風景は、ほとんど、ただ単に、都市の風景を撮影した写真を絵にしただけだろうが、だからこそ、そこには、言ってみれば、無駄なものが、都市を構成する細部、われわれの欲望を構成する環境、われわれの生活を構成しているありとあらゆるものが描かれているわけである。


 従って、そこで描かれる孤独というものも都市の問題として読まねばならない。個々人がそれをどのように思おうとも、都市は孤独をはらみ、孤独を産出するのである。


 別段、この『孤独のグルメ』という作品においては、こうした孤独をどうこうしようとする意見や主張のようなものはない。従って、この作品に結論はない。そうした点で、この作品は、まさに現在を描き出しているのである。もう少し、この現在の都市の姿を読んでいくことにしたい。(次回に続く)