『孤独のグルメ』と現代人の生活(その8)――群衆の欲望から距離を取るということ、特殊と一般の狭間

 井之頭五郎は都市の風景の中に溶け込む。都市においては、五郎が物語の中心人物ではない。五郎は、多くの登場人物(群衆)の中のひとりにすぎない。多くの登場人物の中のひとりであること。このことが孤独を養うのである。


 都市の風景の中に埋没すること。それは自分自身を消し去ることに繋がる。自分自身を消去した地点から風景を眺めるのである。例えば、第11話において、五郎はただ食事をしているだけだが、その周囲では様々な小さな物語が進行している。「ああ…こんな日曜のこんな場所に俺がいるなんてなにか不思議な感じだ」と五郎は言う。しかしながら、周囲の人間が五郎に気を配らない限りにおいて、五郎はその場にいてもいなくてもいい存在になっている。このように、五郎が背景の一部になっているからこそ、そして、そのことを誰も不信に思わないからこそ、五郎は一種の居心地の良さを覚えるのである(「このとろんとした雰囲気、ずっとここにいたような居心地の良さ」)。


 それとは対照的に、いくつかのエピソードにおいて、五郎は、背景から浮き上がり、周囲の人間からの視線を浴びる。第13話において、炎天下で野球観戦をしているときに、「そうか…脱げばいいんだ」という素朴な発見をするのは、上半身裸でいる人間を周囲に発見したからである。もし、周囲の人間に上半身裸でいる人がいなかったら、五郎は、服を脱ぐことをしなかったことだろう。彼は、周囲から浮き上がることを極力避けようとするからである。


 上半身裸になった五郎は、横にいる老人に話しかけられ、その結果、周囲の目が自分に注がれていることを意識する。しかしながら、このような他人からのまなざしは、都市においては、ほとんど一過性のものだろう。一時的に人々の目が同じ方向を向き、次の瞬間には、もうそのまなざしは雲散霧消してしまう。まなざしを注がれた人間はそうした視線を過度に意識するかも知れないが、しかし、多くの人にとっては、名前も分からず顔もすぐに忘れられてしまうような、群衆の中のひとりの行為にすぎないことだろう。


 こうした群衆の行為という水準から見ると、五郎が甥の太(フトシ)に向かってかける声援と、その他の周囲の人間がエースピッチャーのフトシに向かってかける声援との間には、本質的な差はないだろう。もちろん、五郎にとって、甥のフトシは特別な存在である。そこで「がんばれフトシ」ということが言われたとしても、その言葉には独特のニュアンスが込められ、特別の重みが持たされていることだろう。しかしながら、五郎の声援は、群衆の声援の中に溶け込んでしまう。むしろ、周囲の声援があるからこそ、五郎の声援もそこに加わることができたのである。


 群衆の中に埋没し、時に、そこから浮き上がる。こうした群衆という視点から眺めたときに立ち現われてくるのが消費という水準だろう。個人的な思惑とは別の水準で立ち現われてくる消費の水準。人々が群れ集まっているのは、言ってみれば、そこで消費の欲望が組織されているからである。第4話で描かれる朝早くから営業している飲み屋。そこに集まっている人たちの顔ぶれは多様であり、どのような職業に就いている人たちなのかはまったく定かではない。しかしながら、消費という水準で見てみれば、一定の数の人間がそこに集まって飲み食いをしているというのは明白な事実であり、その点では、人々は均質なのである。


 こんなふうに人々が群れ集まることによって組織される欲望というものがあることだろう。第2話で描かれた回転寿司のタイムサービス。五郎は群衆の中に埋没しているからこそ、そこで形成された欲望に促され、予定以上の注文をしてしまう。また第6話において、五郎がシウマイ弁当ではなく、ジェットボックスのシウマイを買ってしまったのは、前の客が言った「ラッキーだな、いつ来てもないから」という発言だろう。つまるところ、どちらの場合においても問題になっているのは、ある種の稀少性である。供給よりも需要のほうが多い状態。こうした欠乏が、ある種の欲望を組織し、人々を行動へと促しているのである。


 もちろん、誰しもが同じように振る舞うわけではないだろう。同じように振る舞ったとしても、個々人のレベルにおいては、そこでの思惑は多様であることだろう。しかしながら、統計学的な観点から言えば、一定数の人間が同じような行動を取っていることは明らかであり、その限りにおいては、そこには、同じ欲望を持った群衆が立ち現われていると言えるのである。


 丸山真男の『「文明論之概略」を読む』によれば、統計学が学問として確立されたのは19世紀と非常に新しく、そうした新しい学問に、同時代の福沢諭吉は注目したのだという。福沢諭吉は『文明論之概略』の中で次のような例を出して、統計学的観点を解説している。

商売上に於て物を売る者は、これを客に強いて買わしむべからず。これを買うと買わざるとは全く買主の権にあり。然るに売物の仕入を為す者は、大抵世間の景気を察して、常に余計の品を貯ることなし。米、麦、反物等は、腐敗の恐もなく、あるいはその仕入に過分あるも即時に損亡を見ずといえども、暑中に魚肉または蒸菓子等を仕入るる者は、朝に仕入れて夕に売れざれば、立どころに全損を蒙るべし。然るに暑中、試に東京の菓子屋に行き蒸菓子を求れば、終日これを売り、日暮に至れば品のありたけを売払て、夜に入り残品の腐敗せしものあるを聞かず。その都合よきこと正しく売主と買主と預め約束せしが如く、彼の日暮に品のありたけを買う人は、あたかも自分の便不便は擱き、ただ菓子屋の仕入に余あらんことを恐れてこれを買うものの如し。豈奇ならずや。今菓子屋の有様はかくの如しといえども、退て市中の毎戸に至り、一年の間に幾度び蒸菓子を喰い、何れの店にて幾許の品を買うやと尋ねなば、人皆これに答ること能わざるべし。故に蒸菓子を喰う人の心の働は、一人に就て見るべからずといえども、市中の人心を一体にしてこれを察すれば、そのこれを喰う心の働には必ず定則ありて、明にその進退方向を見るべきなり。
(松沢弘陽校注、岩波文庫、1995年、82-83頁)

 ここで示されているのは、数によって表現された人々、人々の行動の単なる結果報告にすぎない。しかしながら、このような結果が原因となり、ひとつの欲望を組織するということもありうることだろう(いわゆる「流行」がそうであるように)。


 また、井之頭五郎の行動というものは、こうした数にとっては、ほとんど偶然に入り込んだひとつの要素にすぎないことだろう。主婦たちに混じって回転寿司を食べたり、家族連れに混じって公園やデパートの屋上で食事をするということ。こうした彼の偶然の行動は、例えば、その日の売り上げという観点からすれば、まったく計上されないことだろう。しかしながら、そこでその日彼が食事をしたというのは紛れもない事実であり、このような特殊な行為(代替不可能な行為)と群衆のレベルでの一般的な行為(代替可能な行為)との狭間にこそ、五郎の孤独が位置づけられると言えるのである。


 「ああ…俺の座る場所がどこにもない街」、「ここはもう俺のくる場所じゃないな」、「ああ…こんな日曜のこんな場所に俺がいるなんてなにか不思議な感じだ」。こんなふうに周囲からの距離を感じるときこそ、五郎が、群衆のただ中で孤独を感じる瞬間だと言える。第14話において、街の風景の変貌と、その結果もたらされたハヤシライスの消滅を嘆き悲しむときも、同様に、五郎が孤独を感じる瞬間であるだろう。


 しかし、注意しなければならないのは、こんなふうに街が変化する切っ掛けを五郎自身も無意識のうちに与えていたのかも知れない、ということである。つまり、五郎自身は、単に自分の好みに従って何かを消費していただけかも知れないが、そのような個人的で利己的な消費行動が、直接的にではないにしろ、間接的に何かを大きく変化させた、ということは十分にありえることである。個人のレベルでは単なる趣味の話でも、それが集団のレベルになったときに大きな力を持つ。とりわけ、回転寿司やシウマイの例のように、ことさらに他人の欲望に促されて行動した場合、自分自身の小さな行動が、何かを変化させるという大きな出来事に結びついている可能性はあることだろう。


 しかし、以前に書いたことであるが、五郎は、別段、都市と格闘しようとしているわけではない。ただ単に、ある種の微妙な差異に敏感なだけ、他人の欲望と自身の空腹との間の差異に敏感なだけである。その結果、彼は、奇妙な取り合わせの注文をしてしまう。渋谷では焼きそばと餃子を注文し、石神井公園ではメロンソーダでおでんを食べ、深夜のコンビニでは「ちいさなおかず」を買い集めて一種のディナーを演出するのである。消費のレベルで言えば、これらの注文や買い物には、何の意味づけもなされないことだろう。しかしながら、それをある時に食べる五郎にとっては、明確な意味づけがなされていることだろう。「俺ってつくづく酒の飲めない日本人だな…」、「おでんとメロンソーダってのは、色彩的に最悪の組み合わせだな」、「うわあ、なんだか凄いことになっちゃったぞ」。こうした感慨、こうしたモノローグが、言ってみれば、五郎自身を特徴づけているのであり、五郎自身の孤独が位置するところなのである。


 五郎は、基本的には、他者の欲望に従っている。別段、それに抗おうとはしていない。しかしながら、それによって、彼の空腹が、彼の孤独が、完全に満たされることはありえない。むしろ、その結果、自身と他者との差異を意識し、自身の孤独をますます意識することになる。五郎は、言ってみれば、欲望の次元で他者と関わっているのである。他者が食べるものを食べる。他者が食べたいものを食べる。しかし、多くの場合、そのときにこそ、五郎は他者とのズレを感じ、そして、自身の孤独に舞い戻っていくのである。


 こうした点で、誰もが井之頭五郎になりえるだろうし、そういう意味では、井之頭五郎は群衆の中のひとりにすぎない。われわれは、結局のところはひとりであり、他者との差が完全に埋まることはないだろう。しかしながら、そのような根源的な次元の話をしなくとも、組織化される消費の欲望のレベルで、われわれの孤独は容易に形成されることだろう。


 「モノを食べる時はね、誰にも邪魔されず、自由で、なんというか、救われてなきゃあダメなんだ。独りで静かで豊かで……」。しかし、それならば、ひとりで家で食事をすればいいだろう。五郎のように、外で見知らぬ他人と食事を共にするということ。そうすることは、ある意味で、他人との差を意識し、自らを傷つけることにも繋がるだろう。


 この点で、五郎は、やはり、特別な人間でもある。五郎は、都市の中で形成される群衆の欲望を果敢に横断しようとする旅人である。(次回に続く)