空虚な「私」と再帰的自己発見



 前回は、「愛されなかった子供たち」という近年のサブカルチャーに頻繁に見出すことができる主題から出発して、純愛とニヒリズムとの二極化という図式を提出した。今日のサブカルチャーには、この二面性が頻繁に見出される。過剰な不信とナイーブな信頼とが奇妙な形で同居しているのである。


 こうした二面性が非常によく感じられる場所として、「2ちゃんねる」の名前を上げることができるだろう。そこで重要なのは、やはり、匿名性という要素である。この匿名性は、ある意味で、諸刃の剣でもある。それは、書きこんでいる人の固有性を剥ぎ取ることによって、書きこんでいる人を安全な場所に置くことになるが、その結果、書きこんでいる人は誰でもない人となり、誰からも承認を受けない人物となる。つまり、ある意味で、存在しないも同然となるのだ。この承認を受けないことの不満が、おそらくは、自らの正体を明かしたいという欲望となって現われてくるのだろう。つまり、以前の書きこみを書いたのは自分だということを様々な形で表明するという所作がそれである。


 ここで、ふと、思い起こされるのは、酒鬼薔薇聖斗が言った「透明な存在」という言葉である。そもそも、酒鬼薔薇のやったことが、こうした二面性に貫かれている。つまり、自分が犯罪を行なったということは、当然のことながら、隠さなければならないわけだが、彼が殺人を犯した理由の幾分かには、自分が他人には容易にはできないことをやったという自負があったことだろう。それゆえ、彼は、大きなリスクを犯してまでも、新聞社に犯行声明文を送るなどということをやって、「あれをやったのは俺だ」と言ったわけである。


 最近、香山リカの『就職がこわい』という本を読んだが、この本で紹介されている学生にも、そうした二面性を見出すことができるだろう。つまり、そこに見出されるのは、究極的には、「私」の不在、「私」の欲望の不在である。いわゆる「私探し」でも同様のことが問題になっているのだろうが、いったい、自分が何をしたいのか、ということが不明確なのである。そして、この不明確な「私」の欲望をもっと明確にしようという思いは、ある種の強迫観念の域にまで達しているのである。


 こうしたことから、最近のサブカルチャーに見出すことができる「愛されなかった子供たち」のテーマについて、次のように考えることができるだろう。そこで欠如しているのは、存在の承認である、と。あらゆる価値や意味づけを超えたところにある、存在そのものの承認が欠如しているのである。『灼眼のシャナ』に見出すことができる不安感も同様の根を持っていることだろう。つまり、そこでは、人間の存在にまったく価値が与えられていないのである。人間の存在は、宇宙全体から見れば、ちっぽけなものに過ぎない。そのようなニヒリスティックな考えが一方にある反面、他方においてはそれを否定したい感情も強く存在するのである。


 『灼眼のシャナ』にはまた、別種のモチーフも見出すことができる。それは、自分の存在が自分の思っている以上に貴重なものだった、という自己発見である。主人公の坂井悠二は、自身の存在をすでに失った、抜け殻のような存在(トーチ)なのだが、彼の中には重要な宝物が隠されており、それを巡って、様々な人物が彼のところにやってくる。重要なのは、まさに、この二面性である。ひとつは、その存在にまったく何の価値も置かれていないという側面、もうすでに死んでいるという側面であり、もうひとつは、その死んだ体には、重要な何かが、宝物が隠されているという側面である。


 「私」は何ものでもなく、無価値な存在であるという劣等感と、「私」は他の誰もが持ってないものを持っているという優越感。この二面性は、そもそも、一人称の「私」の存在様態だと言えるだろう。誰もが「私」と言う点で、「私」は特権的なものではない。しかし、この「私」は「私」に特有なものであり、それを他の誰かと取りかえることができないという点で、特権的なものでもあるのだ。


 この二面性をもっとよく考えてみるために、近年のサブカルチャー作品からいくつか例を上げてみよう。まずひとつ目は、奥浩哉のマンガ『GANTZ』である。この作品に見出されるのは、『灼眼のシャナ』と同様、すでに死んだ人間というモチーフである。この作品では、人間に、二種類の死がある。ひとつめの死は実際の死、肉体上の死であり、もうひとつはデータ上の死である。この作品では、データが残っている以上、何度でも蘇ることができるのである(これは、『シャナ』で言えば、真の存在とトーチとしての存在の二つに対応しているだろう)。


 このように、この作品には、生の軽視という側面(登場人物は何度も死に、何度も蘇る)と、生の掛け替えのなさ(決定的な死=カタストロフを回避しようという欲望が常に見出される)という側面の二面性が見出されるのである。これは、つまり、通常の死生観がずらされている、ということである。生は重視すべきであり、死は生を終わらせる深刻な事態である、というのが通常のわれわれの考えだろう。しかし、『GANTZ』においては、単に生きるか死ぬかということではなく、生き残ることが重視されているのである。


 そもそも、『GANTZ』という作品がテーマとして提出していることは(これは『シャナ』についても同じことであるが)、「われわれは本当に生きているのか?」という疑問ではないだろうか? 「われわれは生命体としては生きているが、果たして、生き生きとした生活を送っているのだろうか?」という問題である。それゆえ、この作品では、宇宙人との生死を賭けた闘いというゲーム的世界のほうが、逆説的な形で、リアリティを持つことになるのである。ゲームのほうがリアルであり、日常生活のほうはヴァーチャルになっているのである。


 『GANTZ』という作品が描いている極めて衝撃的なところとは、われわれの生が単なるデータにすぎない、という点ではないだろうか? これは、『銃夢』で描かれていたコンピューター・チップと置き換わった脳と同様、存在の根拠に関わる問題である。TVゲームにおける生は、まさしく、データに過ぎないだろう。確か『GANTZ』の本編で、「ファックスのような存在」という比喩が出てきたと思うが、ファックスのようにデータが転送されたり、コピーされたりする、そのようなデータとしてわれわれの存在が日常的にも捉えられているとしたら、どうだろうか?


 昔のアニメ『山ねずみロッキーチャック』で次のような印象的なエピソードがあった。他の動物たちの声を真似ることができる一羽の鳥がロッキーたちの森にやってきて、ちょっとしたいたずらをする。それは、ある動物の近くにやってきて、木陰から、「自分は○○だ」というふうに、その動物の声を真似て名乗るといういたずらである。そんなふうに言われた動物は、初めのほうは、「いや、自分こそが○○だ。○○はここにいる」と自信を持っていたが、何度もそのように言われると段々と自信を失っていってしまい、最終的には、「もしかしたら、○○というのはあいつのほうで、この俺は別の誰かなのではないか」と思ってしまうのである。


 このように、ある点では、「私」の同一性というのは、非常に脆いものであり、自分自身だけでそれを支えることは非常に困難なのである。そして、こうした傾向は、近年ますます深刻になっているのではないだろうか? 社会学でしばしば語られる「再帰性」とは、まさに、このような事態を指し示す言葉ではないだろうか?


 再帰性の最も良い例は、占いだろう。人が占いに求めているものとは、再帰的な自己発見ではないだろうか? つまり、占い師から「あなたはこれこれこういう人だね」と言われてから初めてその人は、自分の性格に気づくわけだが、しかし、そこで得られる発見とは、「そのことは自分がすでに知っていたことだ」というものではないだろうか? つまり、そこでいう発見とは、未知の何かを知る発見ではなく、既知の何かを知る発見なのである。占いの場合、自分自身の欲望を他者に問い合わせることによって発見していくのである(占い師は、人相や手相から、その人のすでに記載された欲望を読み取っていく)。


 こうした再帰性を見事に表現している今日の作品とは、矢沢あいのマンガ『NANA』ではないだろうか? この作品に出てくる二人のナナの関係は、単なる鏡の関係ではないだろう。つまり、単に、他人の行動の内に自分の欲望を読み取っていくというものではないだろう。そこにあるのは再帰的な関係、自分が過去に経験したことの意味を他者の言葉や行動から発見していくという関係ではないだろうか?


 重要なのは、似ているところがあるとか、違っているところがある、ということではない。二人のナナは、一見したところ、まったく違う人間のように見えるが、実のところは、共通点がいくつもある、ということは確かに言えそうなことである。しかし、この作品に見出されるのは、そのような同一性や差異を根拠にした自己規定ではなく、無数にいる「私」のうちのどれが本当の「私」なのかを他者から決定してもらいたいという欲望ではないだろうか? それゆえ、そこで重要なのは、「お前は○○を欲望している」という他者からのメッセージなのである(ナナがレンと再会する場面で、ナナの行為を決定づけたのは、ハチの「ナナはレンのことが今でも好きなはずだ」という思い込みだったことを思い出してほしい)。


 「いったい自分が何を求めているのか明確ではない」という、ある種、現代の問題において、極めて困難である事態とは、モデリングがあまり有効に機能しない、ということではないだろうか? ある理想的な他者を設定して、その他者のように振る舞うことが望ましいとされ、その他者の真似をすること。そうしたモデリングは、再帰的な自己発見においては、あまり意味を持たないだろう。そこで重視されているのは、未来の自分という理想像ではなく、過去の(そして現在の)自分がいったい何を欲望していたのかを明らかにすることである。「私は○○になりたい」ではなく、「私は○○だったんだ」という驚きがそこでは重要なのである。


 自己確立の困難さ、それを現代的な問題と呼んでも間違いではないだろう。自己確立へと欲望が向かうことはなく、むしろ、欲望は自己発見へと導かれる。『十二国記』や『ファンタジックチルドレン』が描いている異世界や前世というのも、同じような要請によって導き出されたものではないだろうか? つまり、そこで示されているのは、「私は○○だったんだ」という自己の本質の発見であり、自分の中の隠された欲望の発見である。


 今日の物語は、「私」の不在、「私」の欲望の不在、そして、そこから結果する選択の困難さを問題にしている。たくさんの女の子の中からひとりを選ばなければならないというギャルゲー的選択の困難さがその手のアニメで頻繁に描かれるのも、その背景には欲望の不在というものがあるからだろう。いや、欲望の不在という言葉はあまり正確ではないだろう。「私」も不在しているわけではないだろう。多数の「私」がそこにいるのであり、複数の欲望がそこにあるのだ。問題となっているのは、いったい、その中のどれが本当の「私」であり、本当の「私」の欲望なのか、それを決めることができないということである。


 おそらく、こうした複数性を何かひとつのものに回収するためには、外部にある何かが必要だろうし、いま現在求められているのも、そのように外部にある絶対的な原理なのだろう。そうした外的なものに寄りかかれば、何かを決定するのは容易になる。しかし、またしても困難が出てくるのは、いったい、どのような外的な原理に寄りかかればいいのか、それを選ぶことができない、ということだろう。それゆえ、そうした選択を回避するために出てくるのは、偶然的な要素、運命的な要素だろう。あるいは、土着的な何かがそうした選択を回避してくれるかも知れない。どのような土地に生まれたか、どのような家に生まれたか、というところに偶然性が見出されるわけである。


 それにしても、自らの欲望を自らで基礎づけることは不可能な試みなのだろうか? 選択の根拠なしに何かを選ぶことは可能なのだろうか? おそらく、セカイ系の作品が逡巡しているのは、この地点においてである。この揺れや戸惑いを次回も見ていくことにしたい。