『孤独のグルメ』と現代人の生活(その10)――他者のモノローグ、近代人は二度死ぬ

 『孤独のグルメ』について書くのは今回で最後にしたい。そこで、今回は、今まで提出した観点をまとめてみることにしたい。


 まず最初に提出したのは、モノローグという観点である。ここでのモノローグは、ダイアローグの不在と言い換えることができるだろう。つまり、『孤独のグルメ』においては、対話が描かれることはほとんどなく、作品は井之頭五郎の独白によって構成される。言い換えれば、そこには物語が根本的に欠如しているのである。物語がそこにあるとしても、それは最小のものであり、前の話が後の話に続くということもありえないし、出来事が拡大していくということもない。五郎は、ただ単に、店に入って食事をし、独白するだけである。


 しかし、だからといって、五郎は、あらゆる人間関係を自分から遠ざけようとしているわけではない。むしろ、彼は、ある点において、他人と非常に重要な関係を取り結んでいる。それが、つまりは、群衆との関係であり、五郎は、まずは、群衆の構成員として立ち現われてくるのである。


 第1話の五郎は、群衆の中に溶け込んでいない人間、群衆から浮かび上がっている人間であるだろう(「おそらく…俺はあの店には不釣り合いな客だったんだろうな…」)。しかしながら、群衆から浮かび上がっているか溶け込んでいるかは、その時々の一時的な状態にすぎない。ある時は浮かび上がり、ある時は溶け込んでいる。重要なのは、常にそこに、群衆というものが関わっているということであり、ある人々から「不釣り合いな客」と見なされても、それ以上の個体特定がなされることはなく、そこにおいては、井之頭五郎の名前も顔も消し去られているのである。


 そうした群衆の存在によって立ち現われてくるもの、それは、他者の欲望である。もちろん、他者の欲望は、群衆との関わりにおいてのみ出現するものではない。ある特定のグループ、構成員の名前も顔も知られているような小さなグループにおいても、当然、問題となることだろう。その点で、群衆との関わりで問題になってくる他者の欲望とは、消費の水準で問題になってくるような欲望、具体的な他者に帰着させるのが難しい欲望である。この商品がよく売れているとか、この商品が人気があるとか、そのような言葉が、人々の行動を一定の方向に動かすのである。


 このとき、消費者になるということは、顔も名前も剥奪された個人になるということ、どのような利害関心に基づいてその商品を買うのかは分からないが、いずれにせよ、その商品を買ったひとりの個人になるのである。そのひとりは、同じ商品を買った別のひとりと、消費者という点では、まったく同じ存在であり、そんなふうにして、その人物は、統計的な計算のうちに入りこんでいくのである。


 ここでの群衆の出現を地域共同体の崩壊と関連づけることが重要である。つまり、顔も名前も知っている隣近所の人たちから、顔も名前も知らない群衆への移行が重要なのである。地域共同体から群衆への移行、こうしたことは近代化や資本主義の発展の帰結であるだろうが、そのことは、質と量との関わりにおいて、厄介な問題を引き起こす。


 SMAPの『世界に一つだけの花』を取り上げてしばしば語られる「ナンバーワン」と「オンリーワン」との対比。ここで問題になっているのは、量と質との関係である。「花屋の店先に並んだ」花は「一つとして同じもの」ではない。これは真実であろう。その点においてはどれも質が異なる。しかしながら、オンリーワンが問題となるような言説においては、あえてそのような多様な質を除外し、あらゆるものを同じ価値基準によって測るという、そのような操作が行なわれていることだろう。その好例が商品の売買であり、貨幣の存在であるだろう。


 ナンバーワンとオンリーワンとの関係性の問題点を次のようにまとめることができるだろう。すなわち、私は私が特別な存在だということを知っている。しかし、私が特別な存在だと言うことは誰にでもできる。その点で、私は特別な存在ではない、と。オンリーワンを強調することは、酒鬼薔薇聖斗が述べたような「透明な存在」を際立たせることに繋がることだろう。酒鬼薔薇が批判していたのは、「義務教育」、学校教育であるが、ここで批判されている学校教育とは、つまるところ、子供たちを特定の価値基準によってランクづけすると同時に、お前は特別な存在だと言ってオンリーワンを強調するダブルスタンダードによって構成されるものだと言えるだろう。「ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている」と酒鬼薔薇は言うが、学校教育もまた人を「二度殺す能力」を持っているだろう。つまり、一度目は、学力という基準によって、個人を数値化することによって殺し、二度目には、そうした数値化した個人を、何者とも異なる純粋なる「私」として抽象化することによって殺すのである。


 ここから、いわゆる「私探し」や「自分探し」が始まるのも、当然のことである。つまるところ、空っぽになり、透明になった「私」の存在、単にただ生きているというだけの「私」の存在に、何らかの実質を入れようとするわけである。


 セカイ系の土壌も、まさに、このようなところにあることだろう。つまるところ、そこで強調されているのは、空っぽで空虚な自分の存在であり、そのような自分の存在を承認することによって満たしてくれるのが純粋なパートナーの存在であり、これが「きみとぼく」という相互補完を要請するのである(酒鬼薔薇曰く「今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである」)。


 以上の諸言説に見出される主張、「私」の存在は究極のところでは空っぽであるというのは、まったく正しいことであるだろう(それは、近代的な主体として、デカルトのコギトが指し示しているものでもある)。それは、言ってみれば、存在の根源を指し示していることだろう。しかし、重要な点は、こうした直観がおそらくは、近代化の進展によって、言い換えれば、代替可能性のひとつの表現としての群衆の出現によって、誰にとっても明示的なものになった、ということである。酒鬼薔薇は学校教育を批判したが、場所は学校に限らず、その他の多くの場所においても、人は二度殺されることだろう(例えば、コンビニの店員は、まず、店員の資質があるかどうかという基準で人物を査定されて、それに見合う給料をもらうことによって殺され、次に、そうした労働者は他にもいくらでもいるという代替可能性を強調されることによって殺されることだろう)。


 それゆえ、本質的な人間存在としてのわれわれが孤独であるだけでなく(われわれは自分の死を他人と共有することができない)、近代人としてのわれわれも孤独である。われわれは、この孤独を癒そうとして、いろいろなことを試みるだろうが、井之頭五郎にとって、その癒しは食事をすることに結びつけられる。しかしながら、群衆の中で食事をすることは、自らの孤独を癒すことからはほど遠く、むしろ、自身の孤独を過度に意識することに繋がるだろう。それにも関わらず、井之頭五郎は、見知らぬ他人と食事をすることをやめない。他人に近づき、他人との差を意識する中で、他人との関係を持とうと努力するのである。


 空腹であることは、何らかの欠損を指し示す。それは、単なる生理的欲求以上のものを指し示す。何も食べないことが死に繋がる以上、空腹であることは、生と死の狭間、生きることの根本的な次元を指し示す。空腹であることは、何か根本的なものを要求しているのである。こうした観点からすれば、他人と一緒に食事をすることは、お互いのこうした根本的な要求の次元を確認し合うことだと言えるだろう。五郎が、他人に接近することによって、触れようとしているのは、こうした根源的な次元なのかも知れない(「それでも、ひとり、食べるんだな。生きているというのは体にものを入れてくということなんだな」)。


 他人が生きているということ、私の隣に顔も名前も知らない他人が住んでいるということ。現代社会、とりわけ、現代の都市生活においては、こうしたことを意識することが非常に困難であることだろう。なぜなら、そうしたことは、あまりに自明なことであり、そのことが都市の風景の一部になっているからである。


 ここでの隣人とは、実際に自分の家の隣に住んでいる人のことだけを言っているのではない。私の隣人は、もしかしたら、地球の裏側に住んでいるかも知れない。生涯一度もその人のことに思いを馳せることのないような人物。そうした人物のことがなぜ問題になるのかと言えば、われわれは、自分の行動の結果がそうした人物の運命を左右する状況に置かれているからである。いったい、自分のどのような行動がそうした他人にどのような影響を与えるのかは判明ではない。自分にとって利益となる行動が他人にとっての損失になる、とは一概には言えない。因果関係の網の目は非常に複雑であり、誰もそれを正確に追うことはできないだろう。


 しかし、だからといって、自分の利益だけを追い求めていればいい、というわけではないだろう。ここでの課題は、いったい、どのようなレベルで他者を考慮に入れればいいのか、ということであるが、その点で、群衆というのは、都市においては、最も身近にいる他人だと言えるだろう。


 われわれの日常生活の様々な場所に他者の影を感じ取ること。これが重要であるだろう。それは、言い換えれば、われわれにとっては自明のものである原因や要因とは別の原因や要因が存在するという可能性を考慮に入れ続けることである。


 こうした他者の存在は、基本的には、われわれの安全を脅かす存在、何らかの危険をもたらす存在として立ち現われてくることだろう。従って、現代の課題とは、こうした他者をいかにして排除するか、というふうに定式化されていることだろう。


 安全で安定した普通の日常生活。それが今、切に求められているものなのかも知れないが、それは、今日においては、もはや普通の生活ではありえないだろう。


 果たして、どんな生活を送っていることが幸福であるのだろうか? 五郎は、決して、こんなふうには問いを提出しないことだろう。どんな食事がこの空腹を満たしてくれるのだろうか? 五郎は、場合によっては、こんなふうに問いを提出することもあるかも知れない。いずれにしても、人は、最終的には、ひとりで食事をする。その孤独から発せられたモノローグ。本来なら決して聞くことのできないこうした他者の言葉(単なる群衆のざわめきに回収されてしまう他者の言葉)を、この『孤独のグルメ』という作品は、擬似的な形ではあっても、聴取可能なものにさせてくれるのである。(了)