志賀直哉『城の崎にて』――動物にとっての生と死、意識と行為との間のギャップ

 われわれ生きている者たちにとっては、死とは余計なものなのだろうか? われわれ生きている者たちは、死とどのような関わりを持つのだろうか?


 生きている者は必ず死ぬ。これは事実であるだろう。しかしながら、これは、あまりにも明白な事実なので、それを言っただけでは、ほとんど何も言ったことにはならないだろう。


 われわれは、もしかしたら、もうすでに死んでいたかも知れないが、現在は、幸か不幸か、生きている。こう言うことには意味があることだろう。「自分は死ぬ筈だったのを助かった、何かが自分を殺さなかった、自分には仕なければならぬ仕事があるのだ」。しかし、こう思うことは、死そのものについて考えることではなく、死を生に回収して、意味づけてしまうことだろう。死を意味づけるのではなく、死ななかった生を意味づけるのである。


 死ぬというのは、どのようなことなのだろうか? それは、生の世界から顧みられなくなる、ということである。そこに志賀直哉は「淋しさ」を感じた。「青い冷たい堅い顔をして、顔の傷も背中の傷もそのままで、祖父や母の死骸が傍にある。それももうお互いに何の交渉もなく」。ここには死後の世界という観念はない。ここにあるのは現世に留まった死である。死人は徐々に顧みられなくなり、忘れ去られる。死人同士の間に交渉はない。


 志賀直哉は、死に「静かさ」を感じる。動いていたものが動かなくなる。そこには、言ってみれば、物になった存在がある。蜂も鼠もイモリも、ある時点から突然動かなくなり、物になってしまう。「死んだ蜂はどうなったか。その後の雨でもう土の下に入って了ったろう。あの鼠はどうしたろう。海へ流されて、今頃はその水ぶくれのした体を塵芥と一緒に海岸へでも打ちあげられている事だろう」。死んだものは、生きているものとは別の系列をたどる。死んだものは、生きているときとは別の法則に従う。蜂が土の中に入り、鼠が海へ流されていくのも、これらの動物たちが動かないでいるからである。


 「生きている事と死んで了っている事と、それは両極ではなかった。それ程に差はないような気がした」。ここには、例えば魂のような、精神のレベルに存在するものはなく、物質的な身体しかない。死とは機能停止のことであり、動かなくなることである。そして、動いていることと動かなくなることとの間には「それ程に差はない」。なぜなら、生と死の間には、機能停止という一瞬の経過しかないからだ。


 志賀直哉が見出したのは動物のレベルにおける生と死であり、それをそのまま人間についても適用することはできないだろう。人間と動物との大きな違いは、動物が生や死に対して意味づけを行おうとはしないところにあるだろう。串を頭に通され、川に投げこまれ、石を投げつけられる鼠は、志賀直哉からすれば、「死ぬに極った運命」なのだが、しかし、鼠自身はそのことを知らないことだろう。また、志賀直哉の投げた石に当たって死んだイモリは、彼がイモリを殺すつもりがなかったなどということを知らないことだろう。志賀直哉の目からすれば、イモリは死ななくていいのに死んだわけだが、動物のレベルにおいては(あるいは、物理法則のレベルにおいては)、石がイモリに当たり、その結果、生から死への単純な移行があった、というだけである。


 こうした単純な移行という水準で言えば、志賀直哉が事故で死ななかったのも、単に、そのときは死ななかったというだけであって、それ以上の意味は何もない。しかし、人間的なレベルで言えば、われわれは、「もしそのとき死んでいたならば」という反実仮想をすぐさま持ち出すことだろう。そして、そうした反実仮想から翻って、今現在生きていることに意味を与えることだろう。


 こうした考えに従えば、つまるところ、動物にとっては、死などというものは、ほとんど何の意味も持たないことになるだろう。そこには、動くものから動かないものへの移行があるだけである。しかし、人間にとっては、常に、死が問題となることだろう。なぜなら、われわれは、いつでもどこでも、「もし死んでいたら」と想定することができるからである。


 また、われわれにとっては、他者の死というものが極めて重要なものになるだろう。それはひとつの欠損として立ち現われてくることだろう。しかし、おそらく、蜂たちにとっては、一匹の蜂の死は、欠損としては立ち現われてこないことだろう。ひとつの蜂のグループから一匹の蜂が抜け落ちたわけだから、そこには何らかの変化がもたらされるかも知れないが、そうした変化を一匹の蜂がいなくなったという欠損として捉えることはないだろう(「他の蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくその傍を這いまわるが全く拘泥する様子はなかった」)。


 同様のことは、『濠端の住まい』という作品にも描かれている。母鶏が猫に殺されたとしても、その死を、雛たちは認識することができない。

 殺された母鶏の肉は大工夫婦のその日の菜になった。そしてそのぶつぎりにされた頬の赤い首は、それだけで庭へほうり出されてあった。半開きの眼をし、軽く嘴を開いた首は恨みを呑んでいるように見えた。雛等は恐る恐るそれに集るが、それを自分達の母鶏の首と思っているようには見えなかった。ある雛は断り口の柘榴のように開いた肉を啄んだ。首は啄まれる度、砂の上で向きを変えた。

 母鶏の首が「恨みを呑んでいるように見えた」のは、人間がそれに意味づけをしているからに他ならない。志賀直哉が動物たちの死骸に感じる「淋しさ」もひとつの意味にすぎない。むしろ、彼の抱いたもうひとつの感想、「静かさ」のほうが本質的だろう。それが意味しているのは機能停止ということである。


 しかしながら、今日の社会においては、こうした動物たちと同様の死が人間においても起こりうることだろう。いわゆる「孤独死」というのがそれである。もちろん、その死は、いつかは誰かによって顧みられるという点で、厳密に言えば、動物たちの死とは異なる。しかし、そのように孤独に死んだ人たちが、数日間、場合によっては、数か月にわたって、顧みられることがなかったということは、そうした人たちは、われわれの社会のネットワークにおいて、意味のある場所を占めていなかったということだろう。その点では、われわれの社会も、蜂の社会とあまり異なることはないだろう。


 「自殺を知らない動物」と志賀直哉は言う。ということは、逆に言えば、自殺を知っている、自殺をすることができるというのが人間の特徴だと言える。人間は自分の生や死を意味づけることができる。それからまた、「自分がもし死んだとしたら」という想定を行なうこともできる。動物は自分を対象化する視点を持っていないだろうが、人間は自分を対象化して意味づけすることができる。


 こうした点で、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』で語られるサソリは、極めて人間的であると言えるだろう。

 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。

 ここで重要なのは、サソリがどのように考えているのかは別にして、イタチに食べられそうになったときに、すぐさま逃げたところにあるだろう。同様のことは、どこかの国の寓話で語られる、自分も死ぬことが分かっていながら思わずカエルを刺してしまったサソリの行動についても言えるだろう。自分を背中に乗せて川を渡っているカエルを刺せば自分も溺れ死ぬことは十分に分かっているにも関わらず、思わずカエルを刺してしまうサソリである。


 こうした本能的な行動のレベルに着目すれば、それは極めて動物的と言えるかも知れないが、しかし、そこに、意識と行為との間の分裂があるという点では、それは極めて人間的であると言えるだろう。動物は自分の行動に対して反省などしないことだろう。


 まさに、志賀直哉が様々な動物たちの姿を見ながら思いを馳せたのは、このような意識と行動との間のギャップに他ならないだろう。動物は自分たちの行動を反省しない。しかし、人間はそうした行動にすぐさま意味を与える。このギャップが、「淋しさ」とか「嫌な気持」を誘発するのである。


 「生き物の淋しさ」とは、生きているものは必ず死に、その死は何ものにも還元されない、というところにあるだろう。もちろん、個体の死は、自然の循環ネットワークのうちに回収されるという点では有意味だろうが、その個体の死そのものは、何かに還元されることはない。志賀直哉の投げた石に偶然当たって死んだイモリは、われわれ人間のように、その死が共同体のうちに回収されるということもない。つまり、葬儀が行われることもなく、墓に葬られることもない。


 こうした死を無意味な死と呼べるだろうか? 手塚治虫は、『火の鳥』の「未来編」で、知性を持ったナメクジに、次のように語らせている。「なぜ私たちの先祖はかしこくなろうと思ったのでしょうな。もとのままの下等動物でいれば、もっとらくに生きられ、死ねたろうに」。しかし、すでに知性を持ってしまっているわれわれ人間にとっては、こうした問いは、不可逆的な問い、選択不可能な問いであると言えるだろう。


 動物たちは自分たちのやっていることを知らない。動物たちは自分たちの存在を知らない。この無知こそが、志賀直哉が親しみを覚えた「静かさ」なのだろう。