『孤独のグルメ』と現代人の生活(その9)――目を持つ群衆、量の問題を提起する群衆

 群衆の持っている器官とは、端的に言って、目であるだろう。もちろん、群衆は聞いたりもするし、喋ったりもするだろう。ひとつのところに集まって交通を妨害することもありうるだろうし、映画のワンシーンによく見られるように、人と人とを離れ離れにさせたりすることもあるだろう。あるいは、階段のような場所では、雪崩のように崩れ落ちることによって人を圧死させたりすることもあるだろう。


 しかしながら、群衆の機能として、見ることの働きは非常に大きいように思える。アニメでよく見受けられる表現として、登場人物が路上で奇妙な振る舞いをしたときに、小さな子供がその様子をじっと眺めているのを母親が制止する、というものがある。ある人間の振る舞いをじっとまなざす子供と、それを制止する母親。ここに示されているのは、群衆は、目を持っているが、あたかも目を持っていないかのように振る舞わなければならない、ということである。そこにあるのは、人間関係の断絶であり、見ることが何らかの人間関係を構築することを極力避けようとする傾向があるわけである。


 もし、何かを見過ぎてしまったのなら、その人は、群衆から浮き上がってしまうことだろう。そこには個人が立ち現われることだろう(あるいは、単に、その人は孤立してしまうことだろう)。五郎も、基本的には、ただ単に見る人であり、それ以上の関わりを他人と持とうとはしない。第13話で描かれるような甥との関わりでさえ、そのようなものである。彼は、自分の甥に会いに来るというよりも、甥の姿を見にやってくる。スタンドから、他の観衆に混じって、グラウンドにいる甥をまなざし、彼に向かって声援を投げかけるのである。


 その点で、第12話で、五郎が店主に向かって文句を言うのは、極めて異例の事態だと言える。以前に書いたことであるが、五郎がそんなふうに行動できるのも、そこに群衆の目がないからである。五郎は、店主と一対一で対峙していると思えるからこそ、店主に向かって自分の考えを主張することができた。その点で、外国人留学生の店員の目は、五郎にとっては予想外の目であり、五郎の行動を対象化する目、群衆から浮き上がった人物として五郎をまなざす目だと言える。


 五郎自身も、彼が群衆の中に埋没しているときには、そこで起こっている出来事を見る目になっており、その場全体を見る目となっている。その点では、彼にとって食事をするということは、ほとんど口実のようにも思えてくる。つまり、彼は、周囲の光景を見るために食べているのではないだろうか? 彼は、自分の食べているものに対しては、あまり関心を向けない。食べているものよりはむしろ、周囲の雰囲気、周囲の客に注意を向けている。


 泉昌之のマンガに『嵐のカツ丼』という短編作品があるが、この作品の主人公は、五郎とは正反対に、自分流のカツ丼の食べ方に拘泥するあまり、周囲の状況がまったく目に入ってこない。むしろ、周囲の人間が、この主人公に対して、奇異の目を向けるのである。こうした点で、何度も言っていることであるが、五郎は、物語の中心人物ではない。中心人物は別のところにいて、むしろ、そういう人物たちを五郎は眺めるのである。


 第14話で描かれるハヤシライスの消滅というものも、五郎にとっては、出来事そのものというよりも、出来事の結果にすぎないだろう。お店がなくなったこと自体はひとつの出来事であるが、五郎はその出来事に間接的にしか関わっていない。そこにはただ消滅という事態だけがあり、ドラマが欠けているのである。


 ハヤシライスが食べられなくなった代わりにビーフステーキを食べる。この単純な横滑りこそ、消費の水準で問題になっていることである。五郎にとっては、ビーフステーキのうまさは「上滑り」する。ビーフステーキが、消滅したハヤシライスの代わりになることはない。しかし、消費の水準からすれば、そこには、単なる横滑りがあるにすぎない。あれの代わりにこれを食べる。食事をしない人間はいない。この単純な事実が消費という観点の根底にあると言えるだろう(しかし、これは、単なる事実であって、真理とは言えない。というのは、聖書の言葉を引用すれば、「人はパンのみにて生きるにあらず」だからである)。


 この点で、街の持つ役割は大きい。つまり、人が集まるところには、常に、食事を提供する場所がある。デパートや公園、観光地にも店があるし、新幹線の中でも食事ができる。健康や環境に配慮している店もあるし、そんなことには気を使わない店もある。時間帯を気にせずに入ることのできる店もある。都市においては、人々の生活スタイルは多様であり、多様である分、商店も非常に多様である(こうした街と食事との関係において、例外的な場所であるのが秋葉原である。「この街には?食欲?というものが欠乏している気がする」)。


 しかしながら、五郎は、いったい、何が食べたいのだろうか? 人間誰しもが食事をする。しかし、食べられれば何でもいいわけではないだろう。食欲を満たすことはできるかも知れないが、空腹を満たすことはできない。一時的になら、空腹を満たすことはできるが、根源的に空腹を満たすことはできない。第16話の最後で示されるサボテンの「淋しさ」、その孤独。砂漠の中のサボテンというイメージは、孤独だけではなく、空腹というイメージをも喚起する(もっと正確に言えば、水がないということ、のどの渇きを喚起する)。その点では、五郎がサボテンに興味を持ったのも当然だろう。


 「俺は腹が減っているだけなんだ」と五郎は言う。しかし、「腹が減っている」ということを何かの口実にすることはできる。そのことによって都市の機構の一部に自分を組み入れることができる。消費のシステムのうちに自分を組み込むことができる。五郎が都市の中に自分の足場を見出すのは、まさに、そんなふうにして、消費者として群衆の中に混じって食事をするときなのである。


 秋葉原の広場でカツサンドを食べていても、誰も五郎のことを見たりはしない。デパートの屋上でも石神井公園でもそうである。食事をする場所で食事をしている人間は風景の一部になっている。五郎は、秋葉原で、浮浪者風の男が橋の横に座って食事をしているのを一瞥する。ここで五郎が抱く「東京って不思議なところだなあ」という感想は、このような異質な人間をも背景の一部として取り込んでしまう都市の深淵に対して向けられたものだろう。そうした深淵に、五郎も当然、飲み込まれているわけである。


 『ヨコハマメリー』というドキュメンタリー映画があるが、この映画で逆説的な仕方で提示されているのは、そのような都市のあり方だろう。群衆とは顔もなく名前もない人々である。そこにいる人たちはどこから来てどこへ行くのかは分からない。それゆえ、われわれは、横をすれ違う人のことなどまったくと言っていいほど気に留めることはないだろう。しかし、そうした群衆の中で特別な存在だったのがメリーと呼ばれたひとりの女性であり、(常に雑踏の中に存在していた)彼女の半生をたどることによって明らかとなることとは、都市が日々変化しているということである。


 都市が変化しているということは誰もがみな知っていることだろう。今日見た風景は昨日見た風景と異なっている。しかし、われわれは、群衆の構成員もまた日々変化しているということに気を留めるだろうか? 五郎がしばしば目にする家族連れは、家族連れという点においては、その質的な違いがないだろう。どんな家族連れであっても、五郎にとっては、それが家族連れであるという点で、大きな意味を持っているのである。


 しかしながら、だからこそ、村上春樹が『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』で描いたように、雑踏の中ですれ違い、もう二度と出会うことのない人物というものには、永遠の価値がもたらされる可能性があるのだ。こうした特別な価値づけについて、ベンヤミンボードレールのある詩(「通りすがりの女に」)を注釈して、次のように述べている。

 喪のヴェールをかぶり、無言で雑踏のなかを流されてゆくがゆえに神秘のヴェールに包まれて、ひとりの見知らぬ女が詩人のまなざしをよぎる。このソネットが理解させようとしていることをひと口で言えばこうである――大都市住民を魅惑するあの女の形姿にとって、群衆はそのたんなる対立物、敵対要素では決してなく、この形姿は、群衆によってはじめて彼のもとへ運ばれてくるのである。
(「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」、『ベンヤミン・コレクション1』、ちくま学芸文庫、1995年、441頁)

 ここで群衆が果たしている役割とは、多数性であり、無名性であり、偶然性である。顔も名前も知らないたくさんの人間とたまたますれ違うということ。結果、そこで生じてくるのは、単純な数の問題であり、確率や統計の問題である。たまたま出会った人間だからこそ、非常に低い確率で出会われた人間だからこそ、そこには永遠の価値が付与される可能性が出てくるのである。


 似たような確率の問題は、『涼宮ハルヒの憂鬱』において、ハルヒが野球場で実感した自身の平凡さにも言えるだろう。そこでハルヒが見たものとは群衆であり、自分がそうした群衆の中のひとりにすぎないと思うとき、つまり、人間の存在が単なる確率や統計の問題として扱われるとき、自身の卑小さが際立つことになるのである(お前は自分が特別な存在だと思っているかも知れないが、誰もがみんな、自分が特別な存在だと思っているはずだ。こんなふうに、質の問題を量の問題へと変換するとき、特殊性は容易に一般性へと裏返ることだろう)。


 五郎は自分を特別な人間だとは思っていないことだろう。ある時は見る人間になり、ある時は見られる人間になる。起こっているのはただそれだけのことであり、それは、都市の機構に従っているだけのことである。しかしながら、彼の見ているものには、やはり、特別な重みが持たされていることだろう。彼が偶然に見た風景や人々。そうした風景や人々は、まさに、ただ単にすれ違っただけで、特別な関係を持たなかったからこそ、重要な意味を持ってくるのである(「大都市住民だけが経験するような愛、ボードレールによって詩のために獲得されたような愛、成就が許されなかったというよりは、成就されずにすんだと言える場合がおそらくまれでない愛」(ベンヤミン、前掲書、442頁))。


 ただ、五郎は、そんなふうにして見たいろいろなものを、ことさらにノスタルジーの対象にしようとはしない。五郎は、むしろ、現在を生きる。自身の経験したものを横目に見ながら、次々と通りすぎていくのである。そうしたところが、言ってみれば、五郎の極めてタフなところであり、無数の他者との出会いの中でたくさんの傷を負いながらも、彼は、現在の都市の中を生きていくのである。(次回に続く)