カーニヴァル化する社会と現代アニメ



 鈴木謙介の『カーニヴァル化する社会』という本を読んだ。この本の著者は僕とほとんど同い年なので、そこで提出されている問題については、いちいち、納得させられるところがあった。その点に関して、今日から数回にわたって、現代のアニメーションと関わらせる形で、問題を論じてみたい。


 この本で、鈴木が主として問題にしているのは、「ハイ・テンションな自己啓発」と呼ばれるものである。それは、祭り(カーニヴァル)の自己組織化と言えるだろう。何かお祭り騒ぎが起こると、そこで生じた高揚感が多くの人に伝播するものだが、そうした高揚感を自分自身で生み出すのが、「ハイ・テンションな自己啓発」である。


 こうしたことに対する鈴木の問題意識は、彼自身の経験に由来する。鈴木はこの本の「あとがき」で次のように自身の経験を語っている。

 総務省の「労働力調査」によると、産業、職業別従業者平均週間就業時間で見た場合、「インターネット附随サービス業」従事者の労働時間が非常に長いということが目立っている。[…]いわゆる「インタネットベンチャー」の激務ぶりは、内実を知るものにとっては半ば常識だが、実際にそうした企業のいくつかで働いたことのある私にとっても、この数字は「やはりそうか」という気持ちにならざるを得なかった。
 […]今にして思えば、長時間の勤労で頭がぼーっとしていたのかもしれないが、当時は、目の前のプロジェクトをとにかく成功させること、そしてそれが達成されたときのことを考えるときの、何とも言えない高揚感だけが、自分を駆り立てていたのだと思う。
 それだけに、そうした「祭り」が去った後の虚無感は、本当にどうしようもないものだった。プロジェクトが立ち上がり、それがルーティンワークになったとき、仕事へのモチベーションはすっかり失われてしまった。それ以後、いくつかの企業で同じような経験をしたが、その時の私は完全に「ハイ・テンションな自己啓発」のみで連日の作業をこなし、ふっと我に返ってみると、「なんでこんな安い給料で死ぬほど働いているんだろう」と落ち込むという、それの繰り返しだった。
 (講談社現代新書、2005年、170‐171頁)。

 いったい、ここで何が問題になっているのだろうか? まず思いつく言葉は、「意味」というものである。いま自分のやっていることが意味のあることなのか、それとも、無意味なことなのか。こうした有意味と無意味との往復運動を鈴木は体験していたと言える。しかし、この本の全体から考えてみるならば、問題は、有意味か無意味か、ということにはなく、そうした有意味と無意味との落差にあると考えられる。つまり、一瞬前には、ある種の高ぶりの内にあったにも関わらず、次の瞬間には、極度に落ち込んでしまっている。こうした落差がここでは問題になっているのではないか?


 鈴木は、このような一連の状態を「カーニヴァル(祭り)」という言葉で問題化しているが、それは、比喩としては、適当なものだろう。祭りの日に向けて、人々は徐々に盛り上がっていき、祭りが終わると共に、盛り上がりは沈静化していく。その点で、「ハイ・テンションな自己啓発」と呼ばれるものによって引き出された高揚感とその沈静化とは、日常生活の祭り化という事態であり、極めて逆説的な事態であると言えるだろう。


 さて、ここで少し問いを立ててみよう。果たして、意味と祭りとの関係とはどのようなものだろうか? 先の鈴木自身の体験を例に取れば、あるプロジェクトに関わる仕事をすることが祭り化されているわけであるが、注目すべきは、高揚感が去ったあとに出てくる虚無感である。もし、その仕事に何らかの意味が込められているのならば、そこから虚無感は出てこないのではないだろうか? なぜなら、その仕事は、何かを果たしたはずだからである。その仕事が無駄な結果に終わったのであれば、虚無感が出てきてもおかしくないが、鈴木の言っているのは、それとはまったく逆で、その仕事が成功したときに(短期的な目標が達成され、仕事が軌道に乗ったときに)、虚無感が出てくるということである。


 以上のような高揚感と虚無感とは、(TV)ゲームによって得られるものと似ていないだろうか? ある目標に向かって努力を続ける。ひとつひとつの課題をこなしていく。目標に辿り着くまでは、そうしたひとつひとつの作業は意味のあるものだが、ひとたび、課題をクリアしてしまうと、途端にそれまでの作業が無意味に思えてくる。


 ここで問題になっているのは、ある作業に対するヴィジョンである。何かをするときに、その作業に対してどのような意味づけをするかという問題である。ある目標の達成のための手段として、その行為を意味づけすることは可能である。しかし、それでは、目標達成のあとに残る虚無感がなぜ出てくるのかが、上手く説明することができない。それゆえ、問題は、そこでテンションを上げることによって得られる高揚感はどのような役割を果たしているか、ということに移ってくるだろう。


 注目すべきは、この本の中で、鈴木が「ハイ・テンションな自己啓発」と対立させている「宿命論」という言葉である。この対立は奇妙な対立だと言える。「ハイ・テンション」に対立する言葉は「ロー・テンション」だろうし、「祭り」に対立する言葉は「日常」であるだろう。そして、「宿命」に対立する言葉は、「非決定」とか「自由意志」といったものではないだろうか?


 ここにおいて、議論の中心が何であったのかが理解されることだろう。つまり、それは、宿命である。鈴木が体験した「虚無感」は、まさに、この宿命論から出てきたのではないだろうか? 事態を整理するとこうなる。まず先にあるのは、宿命論とそこから生じる虚無感である。「すべては決められている」、「すべては決定済みである」という意識から生じる無力感である。「自分が今さらどうこうしても、どうにもならないのではないか」という意識である。このような一種の鬱状態に対し、それを全面的に覆そうという試みが「ハイ・テンションな自己啓発」である。「いや、すべては決定済みであるわけではない。まだまだ変更可能なところが残っている」。そんなふうに自分自身に言い聞かせて、自分を行動に駆り立てようとするのである。しかし、その人の確信はどこにあるのかと言えば、それは宿命論のほうにある。自分自身にいろいろと言い聞かせて、テンションを高めたとしても、その実際の行動によって明らかになるのは、「自分がちょっとやそっとのことをやったとしても何も変わらない」という反証だけではないだろうか? かくして、また、この人は鬱状態に陥ってしまうことだろう。


 正直言って、この鈴木の本は、明快であるとは言えない。問題が整理されているとは言えないし、様々な概念の混乱も見出せる。しかし、それでもなおかつ、この本が魅力的なのは、そこで鈴木が問題の核心にあるような何かに触れているからである。その何かをもっと明確にしてみようというのが、これから僕が試みようとしていることである。


 さて、そこで、これから僕が取り上げようというのが、現代日本のアニメーションである。鈴木が発見した問題は、現代の様々なサブカル作品に見出すことができるものである。とりわけ、僕がここで取り上げようと思っているのは、『機動戦士ガンダムSEED』、『鋼の錬金術師』、『NARUTO』という三作品である。なぜ、この三作品が問題なのか? それは、まさに、これらの作品が、鈴木が「ハイ・テンションな自己啓発」と「宿命論」という言葉で問題化したものを扱っているからである。そこで焦点化されているのは、まさに、宿命論、「自分には何も変えられない」という無力感である。


 ある何らかの概念を個々の作品に適用する形で作品を分析するのは容易な試みだと言えるだろう。それよりも、もっと困難なのは、個々の作品の持つ力を引き出すことである。それは、作品の持つメッセージだとか、「その作品を通して作者が言いたいこと」などということには還元されないものである。重要なのは、作品の部分的な要素であり、瑣末なもの、偶有的なもの(非本質的なもの)である。作者の意図といったものを裏切るような偶然的な要素。それは、作品を脇道に逸らせ、矛盾を生じさせ、最終的には、その作品を未完成にさせるものである。こうした部分的な要素の力に、われわれ視聴者は、おそらく気がついているはずである。われわれは、ひとつの作品から、ひとつの物語だけを受け取っているわけではないだろう。むしろ、物語の断裂、それをも楽しんでいるのではないだろうか?


 それゆえ、上記の三作品をこれから取り上げるとしても、そこで提示したいのは、個々の作品に内在している物語の分裂した要素である。そうした部分的な要素のために、物語は常に複線化し、様々な可能性を提示し続けるのである。そうした可能性の水準から、個々の作品を見ていくことによって、物語の別の側面というものを常に考えることができるわけである。物語を撹乱する部分的な要素というプリズムを通すことによって、「ハイ・テンションな自己啓発」や「宿命論」といった言葉によって示された問題も、別の側面を示すことができるだろう。この作業は非常に困難であり、どこまでできるか分からないが、次回からは、作品の具体的な内容に注目し、可能な限り、作品に語らせたいと思う。