ヒーローの無力さ、弱さ



 前回は、「なぜ闘わなければならないのか」という問いの視点から、「愛するものを守る」という価値観を問題にした。「なぜ闘わなければならないのか」というふうに問いかける登場人物が、その問いを差し向けている相手は、具体的な誰かではなく、その登場人物を悲劇的な運命へと陥れた世界(あるいは超越者)に対してである。ここに見出されるのは、個人と世界とが短絡的に結びつけられるというセカイ系の図式である。しかし、そこで回答として提出される「愛するものを守る」という価値観は、この構図の中に、横から差し入れられた価値観である。つまり、どこかから密輸入されてきた価値観なわけである。今日も、このあたりの位置関係を問題にしていきたいと思っている。


 まずは、『機動戦士ガンダムSEED』という作品がいったい何を描いているのか、ということを具体的に見ていくことにしよう。『ガンダムSEED』のテーマ、それは、無力さではないだろうか? 『SEED DESTINY』においては薄れてしまったナチュラルとコーディネイターという人種の違いに注目してみよう。この作品には、遺伝子操作を受けた人間であるコーディネイターと、そうでない普通の人間であるナチュラルという二つの人種が存在する。基本的には、この二つの人種の間で、戦争が行なわれているのである(ザフト地球連合との対立)。


 いったい、この二つの人種の対立は何を意味しているのだろうか? 『SEED』の後半から『DESTINY』にかけて、それが単なる人種の違いとして描かれるようになったときに多くのものが失われてしまったと言わねばならない。つまり、ナチュラルとコーディネイターを分ける大きな違いとは、個人の能力の違い、遺伝子操作を受けたために普通の人間よりも、知力にしろ体力にしろ勝っているのがコーディネイターである、というところにあるのだ。


 いったい、この設定が描こうとしているものとは何だろうか? それは、キラ・ヤマトという登場人物の悲劇という形で描かれているように、ヒーローの無力さである。「コーディネイターナチュラルよりも力がある。しかし、それでも、コーディネイターは無力である」ということが、特に、『SEED』の序盤で描かれていることではないだろうか?


 主人公のキラ・ヤマトは、初め、中立国におり、単なる民間人として生活していた。しかし、それが、偶然戦闘に巻き込まれて、ナチュラル側(地球連合側)の戦艦に乗って、モビルスーツガンダム)を操縦せざるをえない状態に陥る。その理由は、一緒に戦艦に乗った友人たちを守る必要があるということと、ガンダムを上手く操縦できるのがキラしかいなかった、ということである。つまり、もしキラがガンダムに乗らなければ戦艦が撃破されて、友人たちは死んでしまうことだろう。それを避けるためには、嫌でもガンダムに乗らなければならないのである。なぜキラにだけ操縦できて他の人にはできないかと言えば、乗組員の中でキラだけがコーディネイターだったからであり、ここにおいて、ナチュラルとコーディネイターとの違いという設定が生きてくるわけである。


 しかし、ここで重要な点は、コーディネイターナチュラルよりも力があるとは言っても、何でもできるわけではない、ということである。作品の中でしばしば描かれるのは、キラの無力さが浮き立つ瞬間、守りたい人を守れなかった瞬間である(特に印象的なのは、地球に降下するときに、民間人の少女の乗ったシャトルを敵に打ち落とされた瞬間である)。


 ここにおいて立ち現われるのは、大状況の失墜という事態である。一昔前のヒーローであれば、そのヒーローには、全世界を救えるだけの力が与えられていたことだろう。敵に負けたことがあったとしても、最終的には勝利を獲得するだけの力を持つことができただろう。しかし、キラにはそこまでの力はないし、かつ、キラは正義の味方でも何でもなく、彼が倒すべき敵というのも、悪の権化というわけではない。この点に、『ガンダムSEED』という作品が導入した奇妙な歪みが見出せるのである。つまり、この作品は、小状況を大状況へと拡大しようとするときに、そこに、大きな歪みが生じてしまう、という事態を描いているのである。


 絶対的な正義は存在せず、むしろ、相対的な悪だけが無数に散らばっている。この状況の中で、それでもなおかつ、絶対的な正義を打ち立てようとするとき、キラが行なっているような歪みが生じてくるのである。つまり、それは、絶対に戦争をしない、という道である。この立場は、『SEED』の後半に確立され、『DESTINY』に引き継がれていく立場である。


 『DESTINY』において、キラは、人殺しをしようとはしない。二つの軍が争っている場にやってきて、すべてのモビルスーツを戦闘不能にして、去っていくのである。ここにおいて、キラが闘っている相手とは誰だろうか? それは、誰でもなく、強いて言えば、それは、戦争そのものという悪である。キラにとって重要なことは絶対的な正義を貫くことであって、そのために行なわれねばならないことは、小さな悪たちを攻撃することではなく、非人格的な戦争を攻撃することなのである。


 しかし、重要な点は、ここでキラが相手にしている戦争そのものは、それ自体として存在しない、ということである。戦争そのものが実体化して悪の権化となっているわけではなく、戦争は、小さな悪たちの間に垣間見られるだけなのである。それゆえ、キラは、敵を見失っているとも言えるのである。


 ここにおいて、キラという登場人物の最大の問題とは、己の無力さを認められないというところにあるのではないだろうか? 目の前に起こっていることを傍観するのではなく、自分にできることをやる(何か行動する)というのがキラの立場である(あるいは、それは、『SEED』という作品の主張と言えるかも知れない)。しかし、そこにおいて、彼は、自分のできることには限界がある、ということを知らないのではないだろうか?


 この点においてこそ、今日のヒーローたちが陥っている困難さがあるだろう。重要なのは、自らの力とその無力さとの間の振幅の大きさである。もし、仮に、自分の無力さというものを認めてしまったとすれば、それが即、ある種の諦念に変わってしまうのである。目の前に起こっていることに何もできないという絶望感である。この絶望感を一挙に払い除けることができるのが、自分には力があるという思い込みである。目の前に起こっていることが自分の介入によって大きく変わるのではないか、ということから開けてくる希望である。この絶望と希望との間の振幅の大きさが、今日のヒーローを規定している特徴なのである。


 ここにおいて、この一連の論考の出発点に戻ってきたと言えるだろう。つまり、この論考で最初に取り上げたのは、鈴木謙介の『カーニヴァル化する社会』という本であり、そこに書かれていた「ハイ・テンションな自己啓発」と「宿命論」との対立であったことを思い出してほしい。そして、この鈴木の本の観点から、『機動戦士ガンダムSEED』、『NARUTO』、『鋼の錬金術師』という三つの作品を取り上げると予告しておいたが、いま、やっと、それをすることができるところまでやってきた。


 さて、つまるところ、上記の三つの作品で問題になっていることとは、ヒーローの無力さなのである。『鋼の錬金術師』については何が言えるだろうか? この作品で描かれていることとは、「等価交換」という錬金術の絶対的な法則が、実のところは、絶対的なものではない、という、その事実といかに対面するか、という問題である。主人公のエドとアルが最初になしたことを思い出してみよう。彼らがやったこととは、錬金術のタブーとされている人体練成(死人を蘇らせること)を行なったことである。彼らは死んだ母を蘇らせることに失敗し、その結果、エドは片手と片足を、アルは肉体をすべて失ってしまったのである。


 ここにおいて、エドとアルのエルリック兄弟が触れたものとは何だろうか? それは、等価交換という法則の絶対さである。人体練成が可能ではないのは、人間を構成するすべての物質がそこにあったとしても、ただひとつのもの、人間の魂が欠けているからである。等価交換の法則が示していることとは、無から有は生じないということである。しかし、この法則の外部に立って、無から有を生み出すことを可能にさせるものが存在する。それが「賢者の石」であり、エドとアルは、自分たちの失われた肉体を取り戻すために、この賢者の石を求める旅に出るのである。


 さて、ここにおいて、エドとアルの二人の兄弟は、等価交換の法則に対して、アンビヴァレントな立場に立っていると言えるだろう。つまり、一方において、彼らは、タブーを犯し、肉体を失うことによって、その法則の絶対さというものを身をもって経験したはずである。しかし、他方では、彼らは、その絶対性に疑いも持っているのである(もし、法則の絶対性を信じているのであれば、例外的な物質である賢者の石の存在など信じないだろう)。賢者の石を使って自分たちの肉体を取り戻すということは、法則に反することであり、つまるところ、自分たちの犯したタブーを無化することに繋がるだろう。


 それゆえ、エルリック兄弟の置かれている立場とは、次のようなものではないだろうか? すなわち、「等価交換の法則が絶対的なものであるのなら、それに従いたい。しかし、もしかしたら、この法則は絶対的なものではなく、その法則に従わなくてもいいかも知れない。そこのところをもっと明確にしたい」という揺れである。こうした揺れは、われわれの日常生活においても、よく見かけるものではないだろうか? つまり、「これこれをしてはならないという禁止事項があるが、それは果たして絶対的なものだろうか。もし絶対的なものであるのなら、それに自分は従いたいが、それは絶対的なものではなく、裏で上手い汁を吸っている奴がいるかも知れない。そのとき、自分は、法則に従うべきか、従わざるべきか」というような揺れである。


 それゆえ、賢者の石を求めるエルリック兄弟の旅とは、例外者を捜し求める旅だと言えるだろう。そして、一見すると例外者のように見えた人物(賢者の石を持っているように見えた人物)が実はそうではなかったということが明かになるとき、兄弟が感じるのは、落胆と共に安堵でもあるだろう。むしろ、賢者の石が見つかることは、一種のカタストロフィーをもたらす事態だと言える。というのも、それは、自分の立っている地盤が大きく揺れ動くことを意味しているからである(絶対的な法則というものをもはや信じられなくなる)。


 『鋼の錬金術師』に見出される無力さの問題は、次のようにまとめられる。つまり、「絶対的な法則がそこにあるとき、その法則によって限界づけられているという点で、自分は無力である。しかし、その法則の外に立つことができる賢者の石を手に入れたとき、自分は大きな力を得ることができるだろう」と。注目すべき場面はいくつもあるが、エドが賢者の石を手に入れるために、囚人たちを犠牲にするよう(ホムンクルスから)誘惑される場面を取り上げてみよう。ここにおいて、彼は大きな誘惑にさらされたわけだが、その根にあるのは、エド自身の無力さ、弱さであるだろう。そこで彼が口にする「弟の肉体を取り戻したい」という利他的な動機の背後に隠されているのは、「自分が弟の肉体を失わせてしまった」という罪責感であり、「自分にもっと力があればこんなことにはならなかったのに」という後悔の念であるだろう。「お前にもっと力を与えてやる。しかし、その代わりに、ちょっとした犠牲を支払ってもらおう」という誘惑は『ベルセルク』のようなマンガでも描かれていることであるが、この誘惑の背後には、無力さや弱さの問題があるのだ。


 この無力さ・弱さの問題を、「愛するものを守る」という価値観に照らし合わせてみれば、それは、愛するものを守ることができる力と、それができない無力さ、というふうに整理することができるだろう。セカイ系の物語が、たったひとりの人を守るということを至上命令にしているとすれば、そこで問われていることも、自分には力があるのかないのか、ということだろう。そして、このような問題設定からすれば、必然的に、いかにして力を手に入れるか、ということが次に問題になってくるだろう。こうした問題設定は極めて危険なものである、というのが僕の主張である。そこには、もうすでに、ひとつの物語が確立されており、あとはただ、その物語に従って行動するだけになる。ここにおいて、セカイ系の物語は、ひとつの試練に立たされていると言えるのである。


 次回は、この無力さという観点から、セカイ系における選択の問題を扱ってみたい。