愛されなかった子供たち、純愛とニヒリズムとの二極化



 前回は、「愛するものを守る」という価値観との関連で、今日のヒーローの無力さの問題を取り上げた。今日のヒーローに課せられた使命は、ある意味、非常に小さいものである。昔のヒーローは、全世界の危機や宇宙全体の危機を救う必要があった。それに対して、今日のヒーローが往々にして守らなければならないのは、たったひとりの個人か、数人の人間たちだけである。しかし、だからこそ、この仕事はより困難なものになっているとも言えるのである。全世界を救うことよりも、たったひとりの個人を守ることのほうが困難な場合があるのだ(全世界の平和のために、自分自身の生命だけでなく、愛するものたちをも犠牲にせざるをえなかった昔のヒーローたちのことを思い出してほしい)。


 さて、今日も、前回に引き続いて、今日のサブカルチャー作品を取り上げて、ヒーローの無力さの問題を扱ってみたい。まずは、前回言及しなかった『NARUTO』を取り上げることにしよう。


 『NARUTO』という作品において、力(の強さ/弱さ)の問題が出てくるのは、主人公のナルトよりも、その友人でありライバルでもある、うちはサスケにおいてである。サスケが力を問題にするのは、彼の兄との関係があるからである。サスケの兄のイタチは、極めて優秀な忍者であり、父からも認められていた。つまり、父から愛されていたわけである。このことから、サスケは、イタチのことを、自慢の兄だと誇り憧れるのと同時に、父の愛を巡るライバルと見なしていたわけである。「父は兄のことを重んじ、自分のことを重んじてはくれない。父が自分のことを愛するようになるためには、自分が兄のように優秀な忍者にならねばならない」。こういう思いをサスケは持っていたのである。


 『NARUTO』という作品は、このように、その物語の根底に、「愛されなかった子供」というモチーフが散見される。登場人物の多くが、その幼少期に、不遇な目に会っている。そして、その不遇さが、忍者としての強さや力の問題と密接に関わるように物語が構成されているのである。


 さて、こんなふうに、「強くなければならない」という思いを強く持っていたサスケであるが、その思いがさらに強くなる事件が起こる。それは、兄イタチが、自分の一族を、父母も含めて、虐殺してしまった、という事件である。その虐殺の中で、唯一生き残ったのがサスケであり、そこで、彼は兄から「お前は弱い」と言われてしまうのである。


 ここにおいて、サスケが兄に対してすでに持っていたアンビヴァレントな感情が、異様な形で増幅することになる。つまり、先にも述べたように、サスケにとって兄とは、自分の憧れの存在であると共に、父の愛を巡っては、自分のライバルでもあった。それが、虐殺事件の後では、兄の存在は、自分の父母を殺した仇敵であると同時に、自分が目指すべき理想(兄を倒すためには兄以上の力を手に入れなければならない)にまで高められたわけである。


 ここにおいて、サスケの中に、力の問題が生じてくる。彼は、少なくとも、兄よりも強くならねばならないわけだが、兄はとてつもなく強い。従って、少なくとも、自分の同級生の中では、自分が最も強くなければならない、というふうに考えて、己の強さを追求していくわけである。ナルトとのライバル関係が生み出されるのも、この地点においてである。当初、サスケとナルトとの関係は、優等生と落ちこぼれとの関係であった。しかし、ナルトは、徐々に力をつけてきて、サスケと肩を並べるか、さらには、サスケを追い越すぐらいにまでなってきたのである。この時点で、サスケには焦りの感情が出てくる。「もっと自分は力をつけなければならないのに、でも、果たしてナルトに勝てるだろうか」という疑念が生じてくるわけである。この疑念が生じてきたときに、前回も少し問題にした、誘惑がやってくる。その誘惑の声は、サスケに次のように語りかける。「お前にもっと力を与えよう。しかし、その代わり、お前はちょっとした犠牲を払わなければならない」。サスケの払わねばならない犠牲というのは、いろいろあるわけだが、その最たるものは、ナルトたちと築いた友情関係を捨て去るというものである。これは、サスケの兄のイタチがしたことでもある。つまり、イタチは、自分の友人を殺し、自分の父母を殺した。それは、友人や家族に向ける情愛の念が、力の弱さへと通じるという考えからである。そのため、さらなる強さを手に入れるためには、自分の愛するものたちを犠牲にしなければならない、というわけだ。


 ここにおいて、『NARUTO』という作品の随所に見出すことができるひとつの問題、愛と強さとが密接に関わるひとつの問題が生じる。それは、つまるところ、次のようにまとめることのできる二つの立場である。ひとつは、上記の立場、愛は力を手に入れるための最大の障害物であるという立場であり、もうひとつは、愛こそが強い力の源であるという立場である(おそらく、こちらの立場のほうを、作者は重んじたいのだろう)。


 この二つの立場は、例えば、ナルトと我愛羅との闘いにおいて、焦点となっていたものでもある。我愛羅の強さの源にあったものとは、孤独であり、ひとりで生きていくことの決意である(ひとりで生きていくために強い力が必要となる)。ナルトは、こうした我愛羅の立場に強い共感を感じる。自分もまた、そのように、愛されなかった子供であったために、我愛羅に共感するのである。しかし、ナルトの場合、ナルトのことを理解してくれる人が何人もいて、現在は友人もたくさんいる。こうした仲間との関係が今の自分の強さになっているとナルトは言うのである(そして、この対決は、ナルトの勝利で終わることとなる)。


 以上のように『NARUTO』という作品を見ていくと、力の問題の背後に愛の問題が隠されていることが理解されることだろう。重要になってくるのは、「愛されなかった」という経験である。そして、この経験は、今日のサブカルチャーにおいて、非常に様々な場所で、頻繁に見出されるものでもあるのだ。


 『NARUTO』と同様、力の根源にあるのは、憎しみの感情であるのか、それとも、愛の感情なのかという問題は、『ジンキ・エクステンド』で問題になっていたことである。そこでは、大雑把に言えば、相手を憎む感情と誰かを守ろうとする感情の二つが力の大きな源となっていた(そして、これが、悪と善との対立に対応するわけである)。主人公に敵対する勢力は、主人公の憎しみを増幅させることを目的とし、そのような形で増幅された力を我が物にしようとするのである。


 ここで、ちょっと、最近のサブカルチャー作品に見出される「愛されなかった子供」の類型を示してみよう。まず、ひとつ目は、「キッチンドランカー(昼間から台所で酒を飲む母親)」がその典型であるが、親それ自身が「愛されなかった子供」であるという例である。現在放送されている『ノエイン もうひとりの君へ』で描かれているような主人公とその母との関係がそれであるだろう。主人公の母は、その母(つまり主人公の祖母)から愛されてはこなかった(と自分で思っていた)。主人公の母には姉がおり、その姉は優秀で、そのために、母は自分のことを愛していない、というふうに考えてしまっていたのである。こういう子供が母親になったとき、まずは、夫から愛されたいと思うだろうし、さらには、子供からも愛されたいと思うようになるだろう。『ノエイン』で描かれている主人公の母の場合、その夫は、どこかに単身赴任しているらしく、彼女は、日中、ひとりで家にいることになる。こうした孤独な母親の唯一の支えは、自分の子供であり、それが、子供に過剰な期待を背負わせるという形で表われてくるのである。『ノエイン』の場合、そこで描かれるのは、子供に勉強ばかりさせる神経質な母親という典型的な姿である。


 さらに、もうひとつの例は、すでに、上に書いたことの中にも出てきたが、兄弟姉妹と比べられることによって、親から愛されなかった子供という例である。典型的な例としては、『ふたつのスピカ』に出てくるマリカという登場人物を上げることができるだろう。彼女は、潔癖症であり、完璧主義者として描かれているが、彼女がこうした性格になったのは、彼女の父が彼女に強要していることがあったからである。つまり、実のところ、彼女はクローン人間であり、自分と同じ名前を持つオリジナルの存在(姉であり母である)のように振る舞うことを父に求められ続けているのである。


 この、ある種、鉄腕アトム的な問題構成とでも言うべき状況において問われていることとは、個別性の承認という問題である。マリカが父に向かって言いたいこととは、「私は姉ではない」ということであり、そこで生じてくる必然的なずれを認めてほしい、というものだろう。そして、このことは、『ノエイン』で問題となっているような、勉強ママに関しても言えることだろう。つまり、そこで、母親が愛しているのは、母親の頭の中にある理想の(勉強のできる)子供であり、その理想とのギャップは、この母親にとっては許せないものであるだろうが、それが子供にとっては愛の不在という意味を持つことになるわけである。


 なぜ、こうした「愛されなかった子供たち」が、今日のサブカルチャーで、頻繁に描かれるのだろうか? それは、われわれが、愛というものに対して、あまりにも、ニヒリスティックな態度を取っているからではないだろうか? それゆえ、今日のサブカルチャーにおいては、愛の問題は、二つの極に分化していると言うことができるだろう。すなわち、ひとつは、永遠不変な愛という純愛の極であり、もうひとつは、すべては一時的なものであり、愛などというものも欺瞞のひとつの名にすぎないというニヒリズムの極である(こうしたニヒリズムを体現している登場人物の特徴とは、あらゆる感情的なものを排し、ただ単に合理的な思考によってのみ行動している冷徹さである)。


 つい先頃、自分の母親の食べ物の中に毒を混入したという女子高生の事件があったが、この事件に見出されるのもまた、そのようなニヒリスティックな態度ではないだろうか? つまり、人間と人間との間に、ある目的の実現というような合理的な思考しか入れず、そこにあたかも、愛憎のような(ある意味で)不合理な感情がないかのように振る舞うという態度である。それゆえ、この事件の不可解さというのは、次のような点にのみ見出される。すなわち、そこに何らかの愛憎関係があれば、この事件の理解は非常に容易なわけだが、しかし、そうした感情が一見したところそこにはないので、それでは、この女子高生を殺人に至らしめたような目的とは何だったのかということがよくわからないわけである。


 実際の事件はさておくこととして、フィクションのほうに目を向けると、そこで露わになってくるのは、そのようなニヒリスティックな態度と純愛との密接な関係である。あるいは、こう言えばいいだろうか。そこに見出されるのは、二つの対立する意見の結びつきである。ひとつは、愛の崇高さ(奇跡)を謳うという態度であり、もうひとつは、そうした不合理な感情を嘲笑うという態度である。この二つの態度が歪んだ形で接続されているのが今日の作品ではないだろうか? つまり、ある作品の中に、この二つの態度の片方しか見出せなくても、その背後には、もう片方が隠れていることに常に想像を巡らすべきだと思われるのである。


 例えば、ニヒリズムの極みとも言うべき『DEATH NOTE』のようなマンガについて考えてみよう。合理的な思考の下、冷徹に人を殺していく主人公にとって、最大の問題とは、愛の実在なのではないか、という疑いを持ちたくなる。あらゆるものを持っていると思われる主人公にいったい何が不足しているというのだろうか? なぜ、ノートを使って、(彼の考える)理想の世界(それは暴力によって裏打ちされた徹底した管理社会である)を作ろうなどという陳腐な考えを持つのだろうか? おそらく、彼の目的は彼自身の言っているところにはないだろう。彼の目的は、ゲームに参加することそれ自体にあると思われるからである。この点で、彼に不足しているものとは、超越的な体験であると言えるかも知れない。つまり、ゲームのルールを無効にするような有無を言わせない切断の体験が彼には欠けているのである。これは、無神論者に何が欠けているのか、という問題と同じであるだろう。おそらく、ひとつの逆説が立ち現われる瞬間とは、徹底して合理的であることによって不合理なものが見出される瞬間、「不合理ゆえに我信ず」というふうに思考の流れが反転する瞬間である(作品の中で、死神の存在は、不合理なものとして扱われていない)。


 あるいは、逆に、純愛を謳った作品の背後には、そうした情感を嘲笑う態度が隠されていることにも注意すべきだろう。登場する女の子がみんな主人公の男の子を好きになるという、オタク系の美少女もの作品にシニカルな視点が内在していることを見るのは容易であるだろう(こうした作品を見ている人の多くが「そんなことはありえない」と思いながら見ていることだろう)。しかし、純愛ものの作品においてもまた、同様のシニカルな視点が内在しているはずである。純愛というモチーフが魅力的に思われてくる瞬間とは、次のようなときではないのか。つまり、「もはや、他人を不信や疑惑の目で見ることに疲れてしまった。人の言っていることの裏の裏を読もうとすればいくらでも読むことができる。自分は非常に複雑に考えてしまったのであって、事態はもっと単純なのではないか」という瞬間である。


 こうした二極化という状況にあってこそ、「ツンデレ」という今年流行した萌え要素が生きてくるのではないだろうか? 例えば、『灼眼のシャナ』を取り上げてみれば、この作品においては、ツンデレという要素が、単に登場キャラの一要素に還元されずに、その世界観とも密接な対応関係を取っていることが分かる。つまり、以前にも述べたことであるが、この作品では、人間の存在に二つの種類があり、その二つの区分けは、愛や憎しみといった感情のレベルと合理的な思考のレベルとの差に対応している。人間とは異なった存在であるシャナは、初め、自分のことを世界のシステムの部分を担う存在というふうに考えていた。つまり、彼女は固有の名前を持っていなかったわけである。しかし、主人公の悠二が彼女のことを「シャナ」と呼ぶことによって、彼女に固有性が生まれたのである。それと同時に、彼女の中に恋愛感情が生じ、悠二を愛するようになったわけだが、彼女の合理的な思考においては、そのような感情を認めることができない。その葛藤が、いわゆる「ツンデレ」という萌え要素として、表に現われているのである。


 それゆえ、ツンデレという萌え要素に見出されるのは、常に、二重の関係性なわけである。ひとつは恋愛感情(恋愛関係)であり、もうひとつは、そうした感情を抜きにした客観的な関係(例えばクラスメイト)である。この二面性と今日のサブカルチャーに見出すことができる二極化とは、おそらく、無関係ではないだろう。そこに見出すことができるのは、愛に対する強い不信であり、そのことから逆に、絶対的な、決して疑うことのできない愛を求める純愛への志向が導き出されるのである。


 さて、ヒーローの無力さの話からかなりずれてしまったが、こうした問題も力の問題と無関係なものではない。『NARUTO』に関して見てきたように、力を持っている/持っていないということと、愛されている/愛されていないということとは、対応関係を持ちうるのである。


 いったい、セカイ系作品で問われていることと何だろうか? それは、世界における個人の立ち位置についてである。いったい、自分は、どのような場所に立っていて、何を選択し、どう行動するべきか、という問題である。純愛とニヒリズムとの二極化とは、それぞれの作品における二つの行動原理だと言える。純愛を扱った作品では、愛するものを守ることが優先される。ニヒリスティックな作品では、しばしば、あらゆる規範を相対化することが問題となる(殺人それ自体を肯定するというのがその最たるものである)。世界の本質は無だ、ということを証明しようとするのである(それゆえ、ニヒリスティックな登場人物の所作とは、一昔前の悪の黒幕の振る舞い、世界征服を目指す悪の黒幕の振る舞いに似ている)。


 セカイ系の作品は、これら二つの要請が交差する場所に位置づけられるように思える。全世界を破滅させるカタストロフを前にして、愛するものを守るために奔走する主人公という図式がそれである。そして、このカタストロフを前にして、主人公が直面することになるのが己の無力さであり、そこから「結局のところ、すべては無に帰すのだから、何をやっても意味がない」というニヒリズムが生じるのである。このニヒリズムといかに闘うのかというのがセカイ系のテーマだとも言えるわけだが、この点に関して、次回、いろいろな作品を検討することで考えてみたい。