純愛から単性生殖へ



 昨日は、純愛のことについて書いたので、今日もまた純愛の話を。


 純愛の理想というのは、二人がお互いに支え合うことである。一方が他方に依存し、他方が一方に依存する。そのような循環的な相互関係を作り出すことにある。それが目指しているのは、相互承認による存在の確立である(エッシャーが描いている様々な永久機関、二つの手が相互にそれぞれの手を書き合っている状態を想起されたい)。


 二つでひとつ。そのような存在様態をファンタジックに描き出したアニメが『KURAU Phantom Memory』である。このアニメを見ていた人は、その最終回に描かれた不気味な場面を覚えていることだろう。クリスマスという名の女性の腹部から、ひとりの女の子が飛び出てくる場面である。


 この作品の主人公・クラウは、「リナクス」と呼ばれる素粒子に取りつかれた女性である。リナクスは原子の中に存在していて、そこから外に出ることを望み、人体に憑依することによってそれを可能にする。リナクスに憑依された人間は「リナサピアン」と呼ばれる。リナサピアンは、外(人間の世界)に出ると、自分の「対(つい)」を求める。対とは、リナクスのパートナーのことであり、二つでひとつになっているから「対」と呼ばれるわけである。クラウの対はクリスマスと呼ばれる少女であって、その姿形はクラウとそっくりである。クリスマスは、ある日突然、クラウの身体から飛び出てくる。朝目覚めると、クラウは、自分の横に自分の対が横たわっていることに気づく。その対を、クラウは、クリスマスと名づけたのである。


 さて、物語が様々に展開したあと、クラウは生気を回復するために、リナクスの世界に戻ることになる。ひとり残されたクリスマスはクラウと再び会うことを願って、人間の世界で生活を続ける。数年が経ったある日、クリスマスが夜空を飛んでいると(リナサピアンは空を飛んだり、壁をすり抜けたりすることができる)、突然自分の腹部から少女が飛び出てくる。それこそが、まさに、新たに生まれ変わったクラウだった、というわけである。


 そんなわけで、この最終回の場面は、非常に感動的なものであるはずなのだが、僕にとっては、極めて不気味なものであった。それは、腹部から人間が出てきたから、というわけではない。その場面から僕が、もし仮に人間が単性生殖を行なえるとしたら、そんなふうに生殖を行なうことになるだろう、ということを想像したからである。


 単性生殖というのは、言うまでもないことだが、微生物などに見られる生殖の仕方、つまり、細胞分裂である。オスとメスという具合に、二つの性がある生物の場合、自分たちの種を存続させるためには、オスとメスが交尾をすることによって、子供を作る必要がある。しかし、単性生物の場合、交尾をする必要も、受胎する必要もなく、自分の体を分裂させることによって、新たな個体を発生させることができる。『KURAU』の最終回の場面は、まさに、このような単性生殖を想起させたのである。


 『KURAU』という作品が何を描きたかったかということを考えたとき、それが純愛であることは間違いないだろう。対がいない状態、対を誰かに奪われた状態、そうした状態にあるとき、リナサピアンは、何としてでも、その対をこの手に取り戻そうとする。あたかも、彼らの生の目的が対と一緒にいることそのものであるかのように、彼らは対を求めるのである。これは恋人と離れ離れになった人間と同じ状態ではないだろうか? 『KURAU』は、そんなふうに、純愛をSFの装いの下に描くことによって、新たに単性生殖の観念を導入したのである。


 実際の設定から考えるのであれば、腹部から自分とそっくりの人間が出てくるというあのシーンは、生殖行為を描いたものではない。リナクスの世界への出入り口がリナサピアンの身体であるというだけであって、問題のシーンも、それは、ただ単に、新たに生まれ変わってこの世界に出てきた、というだけである。しかし、自分とそっくりの少女が腹部から出てくるというこのシーンは、やはり、生殖というものを想起させずにはいられない。つまり、それは、自分自身をそっくりそのままコピーする、分裂という行為である。


 単性生殖の観念に見出すことができるのは、個体の普遍化である。われわれ人間もそうだが、性が二つある生物にとって、個体の特殊性などというものは、種の次元にとってみれば、大した意味を持たない。種としての人間の目的(と言っていいのかどうか疑問だが)は、全体としての人間が生き残ることであって、その過程で生じた個体の特殊性が、そっくりそのまま、再生産されることはありえない。つまり、子供は、父親と母親、その両方の特性を受け継いでいるのであって、どちらか片方だけが遺伝されるわけではない。


 純愛の理想は、このような「種としての人間の意思」とでも言うべきものに反している。純愛において重んじられるのは個体の特殊性であり、望まれているのはその特殊性が永遠に存在することである。二人でひとつ、それが永遠にあることを望むのである。その理想を実現するひとつの手段が、まさに、単性生殖ではないだろうか?


 『KURAU』と同じような、単性生殖的な純愛の理想は、手塚治虫のマンガ『火の鳥・復活編』に見出すことができる。この作品の主人公・レオナは、作業用ロボットのチヒロに恋をし、最終的に、彼女とひとつになることに決める。つまり、レオナの脳のデータをチヒロの電子頭脳にそっくりそのまま移植するのである。かくして、二人は、一体のロボットとして生まれ変わるのだが、このロボットが後にそのままコピーされて、大量生産されることになる。これもまた、純愛の単性生殖的な理想を体現していないだろうか?


 現時点では、今後人間が単性生殖をするようになるとはとても思えないが、そうした欲望を人間が持っていることは間違いない。それは自分の特殊性を永続化させたいという欲望である。ここで、無限と永遠との違いを指摘しておくことは重要だろう。永遠とは、百年後も二百年後も、同じ状態が続くということではない。そこにあるのは、むしろ、無限の観念であるだろう。永遠は時間を超越した状態のことである。そこにおいては、過去も未来もない。まさに、そのような状態こそ、純愛で目指されているものではないだろうか?