『にゃんこい!』のアニメを見ながら考えたことをちょっと書いてみたい。
ちょっと前に、僕は、この作品について、猫たちのネットワークは人間たちのネットワークの外部に位置するものではないかというようなことを書いたが、よくよく考えてみると、これほどまでに、街の至るところに、猫たちが存在しているのは、まさに人間たちがそこにいるから(人間と猫が共存しているから)に他ならない、ということに思い至った。つまり、猫たちのネットワークは、人間の世界の外部に位置する自然のネットワークではなく、人間たちのネットワークの一部を構成しているのではないか、ということである。
あるいは、こんなふうに言えるかも知れない。猫たちが実際に言葉を交わして巨大なネットワークを構築しているようにはとても思えない。それにも関わらず、「猫の集会」のように、猫たちが独特のネットワークを形成しているように想像されるのは、そこに人間関係のネットワークの一部が投影されているからである。ざっくばらんに言ってしまえば、人間には表の顔と裏の顔とがあり、猫はその人間の裏の顔を知っている存在として想定されているのではないか、ということである(飼い猫に誰にも言えない自分の秘密を打ち明ける人もいることだろう)。つまるところ、猫たちのネットワークを辿っていくことは、人間の裏の顔にアクセスすることができる通路になっているのではないか、ということである。
こんなふうに考えると、『にゃんこい』という作品が目指そうとしている方向性をそれなりに理解することができる。つまり、『にゃんこい』が描き出そうと狙っているのはあくまでも人間関係であり、言うなれば、人間関係を斜めから描き出そうというのがこの作品の方向性ではないのか、と思うのだ。
なぜ人間関係を斜めから描き出そうとするのか。それは、おそらく、この作品が、人間関係の豊かさ、人間関係のはらむ豊かな可能性のようなものを再発見しようとしているからである。ここで打破されることが目指されているのは、人間関係を固定したものとして捉える視点、あるいは、人間関係のネットワークの結節点となっている個々人の人格の固定化である。
猫たちのネットワークを持ち出してくることによって明らかになるのは、人間たちが明確には意識していない、人間関係の別の可能性である。言うなれば、猫たちは、人間たちが見ていないものを繋ぎ合わせることができるがゆえに、当事者以上に人間関係のことを理解している可能性があるのだ。
第2話のエピソードにおいては、ヤマンバのメイクをしている住吉加奈子の顔という形で、まさしく、表の顔と裏の顔との分裂が問題になっている。ここで焦点となっているのは、加奈子と(主人公の)高坂潤平との関係性であるのだが、この関係性に変化がもたらされるのは、まさしくそこに猫の視点が介入するからである。猫の視点からすると、加奈子の顔には分裂が生じない。猫にとっては、ヤマンバのメイクという、ある意味、顔の消失という事態は生じない。これは、つまり、顔が問題になるのはあくまでも人間同士の間だけだということだろうが、このような猫の視点を通過することによって、潤平は、忘れていた加奈子のもうひとつの顔を思い出すことになる。そして、そのような記憶の喚起によって、関係性の変化がもたらされることになったのである。
こんなふうに、潤平が、ある種の豊かさ、非常に豊かな鉱脈を発見することができるのは、ただ単に、彼が猫たちのネットワークに介入することができるようになったからである。そして、重要なのは、猫たちのネットワークが普通の人間にとっては不可視なものになっているという点である。つまり、高坂潤平は、不可視のネットワークに介入することによって、見かけ上、あたかも、これまでとはまったく異なる人格を獲得したかのような振る舞いをすることになる。「まったく異なる人格」というのが言い過ぎだとしたら、彼は自身の人格の幅を広げることになった、というふうに言ってもいいだろう。
いずれにしても、このような振る舞いの変化が、人間関係の変化をもたらすことになるというのが、この作品のポイントであるように思う。そして、そこでの変化は、外部からもたらされたものではなく、すでにその関係性のうちに潜在的な可能性として備わっていたものと考えられるのだ。
こういう文脈において、僕は、この『にゃんこい』という作品が『夏目友人帳』と非常によく似た方向性に向かっている作品だと思っている。『夏目』と比較してちょっと気になるのはタイムスケールの問題である。『夏目』において、妖怪たちのタイムスケールは人間たちよりも非常に大きなものだった。これに対して、猫のタイムスケールは人間たちよりも小さい。このようなタイムスケールのギャップが視点の変化、世界を捉える視点の変化をもたらすことになるわけだが、『にゃんこい』においては、こうした視点の変化がどのような形で描かれることになるのか。こうした点がちょっと気になるところである。