君とならば行けるさ、あの虹の向こうに



 近頃、様々なメディアにおいて、純愛ものがブームになっているようだが、アニメなどのサブカルチャーにおいても、もちろん、同様の傾向を見出すことができる。しかし、純愛とは言っても、そのアクセントの置きどころが他と少々異なる作品もある。つまり、純愛とは言っても、そこで、男女間の恋愛だけが問題になるとは限らない。純愛は、女同士、男同士の間でも問題になる。それゆえ、ここで、「純愛」という言葉を使っているとしても、もっと広い意味で使用している。一般化して言うならば、純愛とは、二人の人間の間で問題になることであり、お互いに相手を思い合い、支え合うような、そのような関係のことである。


 現在、なぜ、このような純愛ものが支持されているのだろうか? このブームには、現在の社会状況が反映されていることだろう。つまり、それは、われわれの孤独と関係している。たとえ、家族と一緒に暮らしていたとしても、また、友人・知人がたくさんいるとしても、その人たちがどれだけ自分の支えとなってくれることだろう? 様々な点で、そうした人たちが自分を支えてくれているとしても、果たして、そのことによって孤独が癒されることがあるだろうか? そのような自分の存在の奥底にまで入り込んでくるような他者の存在が、純愛で問題になるようなパートナーである。このパートナーは、そんなふうに、自己の存在の核と密接に関わっているのであれば、別段、異性であっても、同性であっても、問題はない。


 「友情」という言葉があるが、少年向けのマンガやアニメで、友情が描かれることはよくあった。しかし、今日、一見するとそのような友情を描きながら、そこにもっと強い人間同士の関わりを描こうとする傾向がある。注目すべき点は、その人間関係の描かれ方である。それが異性間の場合でも、同性間の場合でも、同じように描かれているのである。


 ひとつ例を出せば、『陰陽大戦記』というアニメが、まさにそのような作品である。このアニメは、おもちゃ会社とタイアップして作られたアニメで、登場人物たちは、実際に販売されている玩具を用いて、敵と闘ったりする。『遊戯王』や『バトルビーダマン』と同種の作品である。『陰陽大戦記』は、そのタイトルからも分かるように、陰陽道に着想を得た作品である。闘神士(とうじんし)と呼ばれる式神使いが出てきて、ドライブという道具(これが商品となっているおもちゃである)を使って式神を操り、敵と闘う。大雑把に言って、そのような話である。


 問題は、そこでの、闘神士と式神との関係である。闘神士と式神との関係は、主人と召使との関係ではない。闘神士は複数の式神を使うことができない。闘神士ひとりに対して使える式神はひとりだけである。加えて、もし誰かと闘って、自分の式神が負けるようなことがあると、その闘神士は、自分が闘神士として闘ってきたそれまでの記憶をすべて失ってしまう。もちろん、その式神のことも忘れてしまう。それゆえ、闘神士同士の闘いには(そして闘神士と式神との契約関係にも)、一回性の観念を見出すことができる。この一回性の観念が、闘神士と式神との関係を、単なる主人と召使との関係以上のものにしているのだ。それは、他と取り換えのきく関係ではない。決して取り換えることのできない単独の関係なのである。


 このように、強い絆で結ばれた二人の人間を描いた作品はいくつもある。『陰陽大戦記』のような対戦ものであれば、『金色のガッシュベル』や『レジェンズ』がそのような作品だろう。『GUNSLINGER GIRL』における少女たちとその担当官との関係も似たようなものだろう(担当官のほうは少女たちを取り換え可能なものとして見ているが、少女たちのほうは自分の担当官を絶対的なものと見なしているという偏りはあったが)。


 さて、『陰陽大戦記』の話に戻ると、この作品の主人公・太刀花(たちばな)リクと、彼の式神である白虎のコゲンタとの関係も、まさに、そのように、強い絆で結ばれた、一回限りの関係である。リクが恐れていることは、コゲンタと別れてしまうことである。そして、重要なのは、この喪失(別れ)が二段階にわたって行なわれる、ということである。まず、第一に、他の闘神士との勝負に負けると、自分の式神は、自分の前から消え去ってしまう。これが第一の喪失である。第二の喪失は、先にも書いたように、自分がその式神と生活した記憶それ自体も忘れ去ってしまうことである。リクが失うことを恐れているのは、もちろん、この後者の喪失、パートナーの存在可能性そのものの喪失である。


 なぜ、このような二段階の喪失を導入しなければならないのか? この点が純愛の問題と密接に関わっている。存在の喪失だけでなく、記憶の喪失の段階を導入すること、それは、永遠という局面を導入することである。自分のパートナーが目の前からいなくなったとしても、そのパートナーが実際にいたという存在の痕跡は残り続ける。彼(女)がそこにいたという事実は、記憶に刻まれているのである(『ほしのこえ』のラストの台詞、「僕は、私は、そこにいるよ」を思い出してほしい)。しかし、この記憶それ自体も、喪失することがありうる。これは、時間性について言えば、永遠から有限の時間への失墜である。再会は決して起こりえない、ということなのだ(なぜなら、再会したとしても、記憶がないなら、それを再会と認めることはできないからだ)。


 このように考えてくると、純愛というものは、再会可能性に支えられているようだ。つまるところ、それは、個体の生という有限なものを超え出ている。それは、永遠と関わっているのである。実際に再会するかどうかは問題ではない。再会が可能であるかどうかが問題なのである。姿形が変化したとしても、お互いにそれと同定することができる指標があるかないかが重要なのである。


 純愛は、宗教や哲学と同じように、この有限な生を超越するひとつの道である。こうした道が探られるのは、いつの時代であっても、まったくおかしいものではない。ましてや、現代など、探られて当然だろう。自分の愛する人が自分のことを記憶しているという事実、それは一見したところ、非常に頼りないものであるが、自分がその相手のことを信じているその信念の強さが、自己の存在それ自体も支えているのである。