未来の時間――幸福とは別の観念について

 物語と日常生活との関係はどのようなものだろうか? 物語と日常生活との間には大きな溝がある。物語の中では日常生活において起こりえないことが起こりうる、ということが決定的な断絶なのではない。日常生活は、物語に比べると、あまりにも無意味であるという点で、大きな溝があるのである。


 「充実した時間」とでも言うべきものが、今日の物語の重要なテーマのひとつだとは言えるだろう。あるいは、別の言い方をすれば、そこで問題になっていることは、端的に、幸福な人生とは何か、というものである。そうした点で、そこで課題として浮かび上がってくるものが、自己実現というテーマなのである。


 自分とは何者であるかという問い。そもそも、この問いがどのような問いであるのかということを問う必要があるだろう。『N・H・Kにようこそ!』で問われていることも、まさに、自分とは何かということである。この問いは、まず第一に、自分の価値を問いただしている。自分は有用か無用か、有用であるとすれば、何の役に立っているのか、ということが問われているのである。


 『N・H・Kにようこそ!』で提示されている陰謀論めいた話は何を意味しているのだろうか? これこそが、まさに、物語と日常生活との間の断絶を示す印である。『N・H・Kにようこそ!』は、日常生活と物語との間の断絶を扱った物語だと言える。別の言い方をすれば、この作品は、日常生活を一変させるような好運な出来事の不在を描いている物語だと言える。そこにおいては、何かが始まる予兆めいたものがいくつも描かれるが、そうした予兆が結び合わさって、大きな出来事へと発展することはない。出来事は常に小さいままである。『NHK』で示される陰謀論は、主人公のひきこもり状態に何とか意味を与えようとする試みであり、実際のところ、作品で示されるのは、ひきこもり状態に意味を与えることの失敗なのである。


 好運な出来事とは、例えば、『NANA』において、新幹線で隣の席に座った者同士が偶然にも同じ名前だったというような類の出来事である。そこには物語が始まる予兆のようなものがある。そして、実際、『NANA』においては、そこから物語が始まる。偶然起こった出来事が伏線という意味を持つことになるのである。


 『NHK』においても、こうした好運な出来事は描かれる。それは、宗教への入信を勧めにきた少女との出会いであったり、高校時代の後輩との偶然の再会だったりする。こうした出会いを描いている点で、『NHK』もまた、ひとつの物語であるが、しかし、それは、そこで開始された物語を常に未発達のままで終わらせようという意図が働いている物語であるように思える(少なくとも、原作の小説においてはそうである)。


 物語と日常生活との関係を、もう少しよく考えてみよう。物語は、日常生活にとって、一種の座標軸のような役割を果たしていないだろうか? つまり、自分の生活がどのようなものであるのか、いったい自分がどこにいるのかを測定する役目を果たすわけである。自分の人生が幸福であるかどうか? これは、日常生活の測定の大きな基準であることだろう。そもそも、何が幸福であることなのか、という点がまったく判明でないと言える。五体満足で、衣食住が満ち足りていれば、それで幸福なのだろうか? 何か欠けているところがあったとしても、その欠けているものを埋めるために必死になっているとすれば、むしろ、その欠損は充実した人生を保証するものだと言える。だからこそ、自己実現ということが問題になるのだと言える。自己実現とは、そのような充実さを自分自身で測定することである。自己実現は客観的なものであるよりもむしろ、主観的なものであるだろう。しかし、主観性ほど頼りないものはないとも言える。非常に強い自信や確信のようなものがなければ、自分自身を測定する基準などすぐに揺らいでしまうことだろう。それならば、何か外的な、比較的客観的な基準に従ったほうがいいかと言えば、そうした客観的な基準と自己充足との間に大きな開きが出てくる場合が間々あるわけである。ここにおいて、人が迷う余地が出てくるわけである。


 『ハチミツとクローバー』も、幸福を主題にした作品だと言える。そこで提出されている問いは、いったい何が幸福なことなのかという問いよりも、もっと複雑なものであるように思える。言うなれば、それは、幸福よりも重要なことは何か、あるいは、幸福とほとんど等価であるような他の価値観とはどのようなものでありえるのか、というような問いである。現在求められているのは、まさに、そのようなこと、つまり、幸福に代わるような人生の価値基準ではないだろうか? 安定と平穏というものが幸福の内実では必ずしもないことは、今日、まったく自明な事柄になっていると言えるだろう。むしろ、逆に、いくつかのトラブルの中にこそ、幸福の芽が宿っているということが、様々な物語で描かれていることである。第二の人生の問題は、この点に関わってくる。第一の人生において失敗のように見えるものが第二の人生においてはかけがえのない財産になっている、ということがありえるわけである。


 だがしかし、今日の物語が教えてくれることは、われわれにとって失うべきものなど、ほんのわずかしかない、ということではないだろうか? 近年の映画やドラマの誘い文句である「泣ける」という言葉は、まさに、この喪失の問題と密接に関わっている。そこで流される涙は、端的に、喪失に対して流される涙なわけだが、逆に言えば、われわれは、自身の日常生活において、それほど根源的に失われるべきものなど持っていないということだろう。おそらく、日常生活において、いつでも泣く準備をしている人はたくさんいることだろう。しかし、日常生活においては、その涙を捧げる対象がほとんどないわけである。従って、結果、多くの涙は、物語に捧げられることになるわけである。


 この夏に公開されたアニメ『時をかける少女』において描かれていたことも、まさに、失われるべきものだったと言える。そこでの喪失は、ある意味、決定的だと言える。というのは、そこで描かれていた喪失とは、現在においても、過去においても、未来においても、一度も起こることができないものの喪失だからである。ここで喪失されたものとは可能性であり、この可能性の喪失こそが(われわれの幻想にとって)決定的なのである。


 小説『NHKにようこそ!』の著者紹介の欄に書かれてある「輝かしい青春のひとときをフルスイングでドブに投げ捨てる」という言葉は、喪失というもののある種の内実を明確に指し示している。それは、まさに、可能性の喪失であり、その青春が実際に輝かしいものになりえたかどうかは定かではないわけだが、そうしたことを語りえる可能性すらも喪失してしまったわけである。北朝鮮による拉致事件で問題になるような喪失も、まさに、このような性質を持っているわけだが、今日のわれわれのライフスタイルにとっても、この種の問題は、やはり、肉薄するところを持っているだろう。ここでキーワードとなるのは若さと老いであり、その点で、健康ということが独特の価値を持ってくるのである。


 今日のわれわれにとって、ほとんど敵対的に立ち現われてくる観念、それが時間である。時間の分節の仕方は非常に多様であり、『ハチミツとクローバー』で提示されている時間の分節法も非常に多様であると言える。この点が、単純に幸福という観念だけがこの作品で問題になっていない理由である。もし幸福だけが問題であるとすれば、そこでの時間の分節は、幸福である時と幸福でない時の二つしかないことになるだろう。『ハチクロ』で描かれていることは、簡単に言ってしまえば、幸福な時を手に掴むことは決してできない、ということである。だからこそ、そこでは、回顧的視点が支配的なのである。幸福の糸を握り締めておくことはできない。だからこそ、次に、別の観念を問題にする必要があるわけである。


 未来の時間。これこそが誰もが頭を悩ます時間であるだろう。『時をかける少女』が示唆したことは、未来の時間は私的なものではない、ということである。幸福の次の段階というものがありうるとすれば、それは可能性の創出というものに関わってくることだろう。まだ見ぬ存在のまだ見ぬ時。人類の次の段階というSF的発想には、今日、まだまだ耳を傾ける余地があるように思う。