回顧的モノローグとその効果

 数週間くらい前から、アニメ『ハチミツとクローバー』に、ある種の回顧的視点が明確に導入されてきたが、回顧的視点が醸し出す雰囲気というものは間違いなくあるように思う。例えば、『NANA』がそうで、アニメの場合、オープニングの前に、ハチのモノローグが必ず入る。この回顧的モノローグの役割は、ある種、非常に今日的なものだと言えないだろうか?


 回顧の視点とは、間違いなく、喪失というものと関わっている。回顧される過去とは、まだ喪失されていない時点のことであり、回顧している人が立っている時点というのは何かがすでに失われてしまった時点である。いったい、そこで何が喪失されたのかという点はもちろん重要だが、しかし、それ以上に、この回顧的視点が生み出す効果とは、その過去の時点においては、喪失それ自体がまだ知られていないということが明確になることである。つまり、喪失しているかしていないかということよりも、喪失の可能性を知っているかいないかということが重要なのである。


 ここには二人の人間、二つの視点がある。過去の人物はこれから起こる出来事を知らない。つまり、何かが喪失されることを知らない。しかし、未来から過去を回顧する人物は、これから起こる出来事を知っている。つまり、この人物は、過去の自分に同一化することで、言ってみれば、過剰な苦痛を感じ取っているのである。過去の人物が何かが喪失されたことを知ったとき、その人物は苦痛を感じるだろう。その喪失感こそが回顧の動機となっているわけで、その目的のひとつは、まだ喪失されていない時点に戻ることだろう。しかしながら、当然のことだが、過去を変えることはできず、回顧することは、必然的に、喪失を再体験することに繋がるのである。


 しかしながら、われわれ視聴者の視点においてはどうだろうか? 視聴者のレベルにおいては、回顧的モノローグは、これから何か大変な出来事が起こることの先触れという役割を果たす。ホラー映画で、人を驚かすようなものが出てくる先触れとして、不気味なBGMが流れるのと同じである。そこで視聴者は、ある種の先取りをして、現在見ている風景を二重に見ることができるわけである。つまり、その時点において、登場人物たちが笑っていたとしたら、その笑いは先取りされた悲しみの表現に他ならないわけである。


 このような先取りされた視点というものを、われわれは、自らの日常生活において頻繁に使用していないだろうか? おそらく、誰もが未来を先取りしていることだろう。つまり、未来から過去を振り返っている視点があるからこそ、人は、現在という時点において、過剰な悩みを持つのである。


 現代の問題として、未来に対する見通し難さというものがあるように思う。もっと言えば、われわれが未来に思いを馳せたとき、その多くは、希望ある未来というよりも、現在よりも状況が悪くなった未来というものではないだろうか? 状況の悪くなった未来を先取りしているからこそ、現在というものがこれから喪失される何かとして経験されるのだと思われる。そんなふうに思考する人は、おそらく、鬱傾向の人だろう。鬱と回顧的視点との間には密接な関係があるように思う。