無意味な日常生活の充実した価値――『DEATH NOTE』と近年のサブカルチャー作品を巡って

 この前、『DEATH NOTE』の映画を見てきたので、それに関連して、このマンガ作品について、またいくつか、思ったことを書き連ねてみたい。


 『DEATH NOTE』については、以前にも、何回か、問題にしたことがあったが、このマンガに対する僕の基本的な関心は、主人公の夜神月に集中していた。このダークヒーローが醸し出す頽廃の雰囲気というか、ニヒリズムの匂いは、現代の様々なサブカルチャー作品に共通して見出せるものだと思っているからである。


 それは、悪をなすことに対するためらいのなさと言うことができるだろうか? 重要なのは、そこにおいて、感情のレベルにあるようなものよりも合理的な思考のほうが勝っているという点である。感情のなさ、クールさが、そこにおいては注目すべき点である。


 今日は、この問題点を再び取り上げることはやめて、別の角度から、『DEATH NOTE』について語ってみたい。それは、言ってみれば、『DEATH NOTE』という作品の上部構造ではなく、下部構造について少し問題にしてみたい、ということである。


 ノートに名前を書くと人が死ぬということ。この発想が意味することとは何だろうか? ノートに名前を書くということと人が死ぬということとの間には、明らかに、乖離がある。乖離があるからこそ、当初、夜神月は、自分のした行為に恐怖するのである。夜神月の行なう殺人行為の大半は、テレビなどのメディアに出てくる犯罪者を対象にしていたわけだが、こんなふうに、メディアに出てくる人間を対象にしているという点で、この殺人行為には、リアリティが少しばかり欠如しているところがあると言えるだろう。しかしながら、そこには、まったく何のリアリティもないわけではなく、明確に、メディアのほうからの返答がある。ノートに名前を書くという行為と現実からの反応との間にある距離、この距離が、この物語に不気味な空気を漂わせていることは間違いない。


 人を殺すという、ある意味、非常に単純明快な行為について、改めて問題にしてみよう。現代という時代において、人を殺すという行為がことさらに問題になるのには、やはり、それ相応の理由があることだろう。例えば、『GANTZ』で描かれている人の死についてはどう考えられるだろうか? そこで描かれるのは、嬉々として殺人を楽しむ人々、殺人をすることを許されたゲームにおいて、武器を使うことを楽しむ人々である。もちろん、そこには、そんなふうにゲームを楽しむことに対する違和感も描かれているわけだが、ゲームと死という二つの言葉がそこで緊密に結びつけられているのには、やはり、注目に値するところがある。


 ゲームの中で許されている殺人行為が現実にも許されているということ。これは、つまるところ、人は、それがゲームという形式の下でならば、いくらでも人を殺すことができる、ということである。これは、どんな人でもそういう状況ならば人を殺すだろうということではなく、形式として、人は殺人のやり方を知っているということである。ゲームというのは、そんなふうに、可能性として、人間の振る舞いの方向性を事前に決定づけるところがある、ということである。ここにあるのは、殺人の可能性の条件の問題である。


 現代性という観点から、問題の視点を少しずらしてみれば、そこで注目すべきなのは、特殊な場所における特殊な出来事が問題になっているのではなく、日常生活の中に突然出現した異質な出来事が問題になっているというものである。『AKIRA』や『ドラゴンヘッド』のように、日常生活が崩壊した以後の世界ならば、それまでとは異質な出来事がいろいろと起こってもおかしくはないだろう(あるいは、異世界を舞台にした作品ならば)。しかし、『GANTZ』では、日常生活のうちに、突然、異質な出来事が起こるのである。人々がいつも通りの生活を送っている場所で、大規模な戦闘が行なわれているのである。


 『ガンパレード・マーチ〜新たなる行軍歌〜』、あるいは、『ガンパレード・オーケストラ』で描かれていることもそうしたことではないのか? これらの作品で描かれている時間は、「戦時」というよりも、むしろ、「平時」なのではないか、という気がしてくる。戦争というものは、日常生活を構成する一部(あるいは、その背景を構成するもの)であり、むしろ、日常生活の価値を高めるための単なる条件という気がしてくるのだ。これらの作品では、奇妙なほどに、敵との戦闘が描かれることはない。敵との戦闘よりも、日々の生活のほうに重点が置かれているのである。そこでの日々の生活は、ある種、誰もが体験するような平凡なものであるが、そうした平凡な時間がかけがえのないものとなるのは、そこに、例えば、戦友の死という出来事が介入するからである。有限性という視点がそこに介入することによって、日々の生活に輝きがもたらされているのである。


 こうした事態を象徴的に描き出していたのが、『蒼穹のファフナー』という作品だったと言えるだろう。この作品の舞台は、竜宮島という孤島なのだが、この島は単なる島ではなく、地球外生物と戦うための要塞となっている。しかし、普段は、平穏な日常生活が営まれており、そこに軍事色はまったく見えない。敵が来襲したときにだけ、一般島民は軍人となり、島は要塞となるのである。このような平時と戦時との間の共存は、平和な日常生活の温存という意味を持っていることだろう。それは、『メガゾーン23』に描かれていた1980年代の東京の街にも似ているが、実際の地理的な条件や歴史的な条件にも左右されない永遠の場所と時間がそこには(擬似的にでも)存在しているのである。


 こうした平時と戦時との間の往復運動は、『最終兵器彼女』でも描かれていたわけだが、そこでの意味を改めて確認しておけば、それは、ほとんど希薄化した無意味な日常生活の時間を価値あるものにしようという試みであると言える。『最終兵器彼女』で何度も繰り返されるのは「これが最後の時である」という時間の有限化であり、そのことを未来から現在を眺める回顧的な視点が支えているわけだが、こうした有限性が、無意味で代替可能で退屈な日常生活の時間を、有意味で代替不可能な充実した時間に変化させているのである。


 同様のことは、『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品でも試みられている。そこで行なわれていることは、かなりダイナミックであるが、つまり、この作品では、世界の可変性という観点から、日常生活に意味が与えられているのである。世界は、別段、現在ある形でなくてもよかったし、それを別の形に作り変えることも可能である。それだからこそ、逆説的に、この現在ある世界というものが、天文学的な数の可能性の中から選び出されたという奇跡的な価値を持つわけである。まさに、「この星は奇跡で出来ている」わけである。


 いくつかのギャルゲー作品(のアニメ)に見出すことができるノスタルジーを感じさせる風景について考えてみよう。『ラムネ』、『AIR』、『D.C.〜ダ・カーポ〜』といった作品において重要なものとは、その物語の背景をなす海や青空の存在ではないだろうか? こうした海や青空の広大さは、有限の時間を画定する装置として機能していないだろうか? 無限に開かれている空間がある反面、有限の時間がそこには流れており、登場人物たちは、そこでの貴重な時間を享受するように促されているわけである。ここでの時間の享受を、例えば「青春は一生に一度きり」などという月並みな言葉で理解すべきではないだろう。『時をかける少女』がSF的なギミックによって描き出したように、不可逆性の下に置かれた時間よりも重要な、代替不可能な時間というものが存在するのであり、問題になっているのは、そうした時間の享受である。


 ここで参照すべきなのは、『ハチミツとクローバー』で描かれていた奇妙な時間、一度も起こったことはないのに、充実した意味を持っている時間である(アニメにおいて、それは、番組の最後で提供を知らせる時間に、静止画として、作品の外で充実した意味を持たされていた)。それは、未来に起こりうるかも知れないと想定されていた時間であるが、実際のところは起こることはなかった時間である。こうした時間の存在は、そこに回顧的な視点が導入されているからこそ、そこに位置づけることができるわけだが、その機能とは、現在という時間を相対化するところにある。つまり、その空白の時間のおかげで、現在をまるでひとつの過去であるかのように相対化して見ることができるのである。そこには、常に、そうではなかったかもしれない現在の影が映っているのである。


 新海誠の風景についても少し考えてみるべきかも知れない。そこで問題になっているのは、端的に、光であると言える(朝日や夕日、様々なものに反射する太陽の光、街灯やヘッドライトのような人工の光)。そこでは光が何かを語っているのである。あるいは、もっと正確に言えば、光が過去を記憶していると言ってもいいかも知れない。まさに、それが、『ほしのこえ』で描かれていたことであるが、光が過去の記憶を照らし出したり、運んできたりするのである。


 新海誠の風景を、単純に、美しい風景と言うべきだろうか? おそらく、そうではない。新海誠の風景とは、言ってみれば、物が記憶している風景なのである(記憶において、その場所をマークしているものが光だと言える)。それは、われわれの日常生活を構成する断片であるが、われわれのひとりひとりの人生にとっては、ほとんど意味をなさないような風景である。そうした風景がわれわれの人生の中心にあるわけではない。それは記憶の中心にあるわけではないが、しかし、記憶の背景を構成している風景である。この風景が、村上春樹の『ノルウェイの森』にあったように、人物の姿が掻き消されても、いつまでも残り続けることになるのである。


 最初に提起した問題からかなり逸脱してしまったので、そろそろ『DEATH NOTE』に話を戻すと、この作品は、上記した一連の作品と比較すると、その対極にあるような作品だと言える。つまり、『DEATH NOTE』においては、日常生活の時間がほとんど存在しないのである。無意味な時間はそこには存在せず、すべての時間に意味が付与されている。


 無意味な日常生活の時間から逃れて、有意味な極限状態の時間へ、というのがひとつの流れだとすれば、他方には、無意味な日常生活の時間の価値を再発見しようという方向性もあると言える。この二極は、どちらか一方というものではなく、現代という時間を構成する両輪だと思われる。日常生活が退屈なものに陥ることは間違いないし、そこに輝きを再発見するためには、例えば、新海誠のアニメのようなプリズムを使う必要があるのだ。


 事態を単純に捉えないために、時間の複数性というものをここで強調しておくことにしよう。それは、量として考えられている時間に、質の違いをもたらすというものである。加えて、そこでの質を、単純に、有意味か無意味かで捉えることもやめて、もっと別の基準というものを今後は考えていくことにしたい。また、過去・現在・未来というふうに、時間の流れを直線的に考えるのではなく、時間を複線的なものとして考えてみることにしたい。


 近年のサブカルチャー作品において問題になっていることとは、簡単に言ってしまえば、有限のリソースからいかにその可能性を引き出すかということだろう。人間の一生は単に短いだけでなく、ほとんど類型化しつつあるものだと言える。使える手持ちが非常に少ないということである。この乏しさについていかに考えるかということが今後の課題になってくるだろう。