日常生活における小さなもの

 前回は、「ゲームと実存」というテーマで、今日においてゲームをすることの意味を、実存という側面から問題にしていった。僕がゲームを問題にしたのは、そこでの実存の問題を場所の問題と結びつけたかったからである。僕は、以前から、小さなものに興味を持っているが、その小さなものを場所という観点から取り上げてみようというのが現在行なっている試みである。小さなものとは、つまるところ、無意味なものである。『無能の人』の石のように市場価値のほとんどないものである。それは趣味と呼んでいいかも知れないが、しかし、それは嗜癖に近い趣味、場合によってはフェティッシュになるような趣味である。


 場所についてのこだわりということについて少し考えてみることにしよう。つまり、なぜ、この場所でなくてはならないのか、という問題である。こうした問いは、しばしば、地上げや再開発に抵抗する住民に対して投げ出される問いだと言えるが、果たして、そこで争点となっているものとは何だろうか?


 一連のアニメ作品を振り返ってみたときに、そこでは、意外なほど、場所というものが重要性を持っていると言えないだろうか? つまり、代替不可能な場所がそこにはある、ということである。特に、ギャルゲー原作のアニメ作品における場所の重要性というものは注目に値する。例えば、『双恋』であるが、そこにおいて、双子が多数登場することの必然性の根拠は、その土地柄というものに置かれていた(こうした土地の固有性についての問題は、まったく別種の作品だと言える『フタコイ オルタナティブ』においても、別の形で、見出すことができる)。単にキャラクターがいるということだけが問題ではなく、キャラクターがその場所にいるということが問題なのである。


 あるキャラクターが存在しているということ。そのことを下支えしている何かが必要であることだろう。彼女たちがどこかにいるということ。存在しているということは、世界のうちで、ある場所を占めているということ、どこかに彼女たちの立つ場所があるということである。


 こうした問題を輪郭づけるひとつの事例が、ネットでいくつか報告を読むことができる、いわゆる「聖地巡礼」という行動ではないだろうか? マンガやアニメで舞台になった土地を訪れるということ。そこで目指されていることは、(当然のことながら)キャラクターに出会うことではなく、キャラクターと同じ空気を吸うこと、キャラクターの立っている地面と同じ地面に自分の足を乗せることではないだろうか?


 このとき、場所の意味合いが非常に重くなってくることに注目すべきだろう。争点となっているマンガやアニメに触れる以前には何の意味もなかった風景が、極めて強度のある風景に変化するのである。何気ない道、どこにでもあるような道が、あの作品のこのシーンに出てくるということから、非常に特殊化されるわけである。


 ここに見出される欲望は、逆の方向においても見出すことができるだろう。それは、マンガやアニメに出てくるものを実際に作り出そうとする欲望である。例えば、『となりのトトロ』に出てくる家を再現しようとする欲望とはどのような欲望だと言えるだろうか? 単に、家の構造が問題になっているわけではないだろう。そこで再現されるのは擬似的な思い出である。「あの場所で、サツキとメイが……云々」というふうに、擬似的に記憶が喚起されるということ。そうしたことが、そこでは狙われているのではないだろうか?


 物が思い出を喚起するということ。まさに、サイコメトリーという超能力は、こうしたことから発想されたのだろうが、場所と思い出との関係において重要なのは、何か物がそこにあるということであり、再開発によって失われてしまうと想定されているのも、まさにそのような(記憶を喚起する)物だと言えるだろう。


 このような場所と物語との関係はどうなっているのだろうか、というふうに問いを立てることは極めて重要であるように思える。場所が意味づけられているとして、その意味づけを物語という側面から問題にすることはできるだろう。しかし、それ以前に、そもそも、物語の水準とはどのようなものであるのか、ということを改めて考えてみなければならない。以前問題にしたように、日常生活と対比されるような物語、とりわけ、小さな物語をどのように規定することができるだろうか?


日常生活の貧しい物語
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20051008#1128776309


 以前に書いたこの文章の中で、僕は、日常生活と物語とを対立させたが、そのような対立のさせ方は間違っていないように思える。しかし、小さな物語を日常生活に近づけさせることは、やはり、問題があると言える。日常生活を物語化できないものとして、物語のように一貫性のないものとして定義をするのであれば、小さな物語と日常生活との間の差異をもっと強調しなければならない。


 例えば、『ふたりはプリキュア』であるが、そこで毎回描かれるエピソードを日常生活と呼ぶことはやはりできないだろう。そこで描かれる出来事は、たとえそれが「光と闇との闘い」のような大きな話ではなくても、ひとつの物語に変わりはないだろう。日常生活とは、ほとんどのエピソードから排除されているもの、毎回のエピソードに部分的な形でしか窺うことのできないもの、毎日繰り返されるルーチンワークのようなもののことである。


 こうした日常生活を描こうとする試みとして、例えば、『涼宮ハルヒの憂鬱』の第9話「サムデイ・イン・ザ・レイン」を上げることができるだろう。このエピソードで描かれていることも、日常生活そのものではなく、小さな物語にすぎない。そこに始まりと終わりがある限り、それは物語だと言える。しかし、例えば、静かな部室の部屋に外部の様々な騒音が流れこんでくるという長回しのシーンに、日常生活の雰囲気を感じ取ることはできるだろう。そこに見出されるのはひとつの反復(毎日繰り返されるもの)であり、何の特殊性も固有性もない、無意味な時間というものである。


 つまるところ、小さな場所での小さな物語においては、日常生活を装った小さな出来事がしばしば描かれるというところがポイントである。例えば、『かみちゅ!』の「夢色のメッセージ」という、一日中コタツの中でゴロゴロしているエピソードは、果たして、日常生活を描いていると言えるだろうか? これも、やはり、日常生活の雰囲気を醸し出しているが、ひとつの物語であることは間違いないだろう。


 問題となっている基準は、そこに意味があるかないか、ということである。物語には意味があり、意味の実現を妨げるものが日常生活だと、ひとまずは定義できるだろう。「やおい」の語源は、周知のように、「山なし、オチなし、意味なし」であるが、しかし、物語においては、オチがないこともまたひとつのオチになりうるだろう。こうした点では、先の『かみちゅ!』のエピソードなど、意味が充満しているだろうし、日常生活を非常に上手く偽装していると言える『苺ましまろ』のような作品にも十全な意味を見出すことができるだろう。


 『苺ましまろ』や『あずまんが大王』のような作品に意味を与えているものは端的に形式だと言える。『あずまんが大王』のマンガが四コマであることが象徴的であるが、そこには、形式による意味の切れ目が存在するのである。その点で、『苺ましまろ』や『あずまんが大王』のアニメは、連歌のように、小さな場面の連鎖から成り立っている作品だと言えるだろう。


 しかしながら、だからといって、そこにおいて、日常生活がまったく問題にならないわけではない。むしろ、そうした小さなエピソードの背後に、さらに意味のない日常生活が潜んでいることを仄めかすのが、そうした小さな物語の意図だとも言える。つまり、ここで立ち現わせたいものとは、生活、あるいは、生そのものである。ここにおいて、反復されるものに意味が出てくる。例えば、『フランダースの犬』において、牛乳を町に運ぶという毎日の仕事が立ち現わせるものは、まさに、生活だと言っていい。『フランダースの犬』の物語は、まさに、このような生活から逸れることによって始まると言えるのだが、毎回のエピソードで繰り返されるこの単調な仕事が、登場人物たちの生というものを立ち現わせているのである。


 ここにおいて、癖や好き嫌いといったものが持つ役割は、どのような作品においても、決定的な役割を持つと言える。あるキャラクターを特徴づける「好きなもの」と「嫌いなもの」。これは、そのキャラクターの人生を仄めかしていると言えないだろうか? 例えば、『ガン×ソード』の主人公ヴァンの癖、料理にありとあらゆる調味料を振りかけて食べるという特殊な癖について考えてみよう。この癖は、作品のメインの物語にとってはほとんどどうでもいいものかも知れないが、しかし、この行為がこのキャラクターに肉を与えていると言えるだろう。つまり、物語の中で、ある役割を担っているキャラクターの存在に、そうした役割の外にあるものが介入してくるということ(場合によっては、物語上の役割を破壊するまでになる)。それが、そのキャラクターを生きたものにするわけである。


 このような瑣末な要素に注目した作品として、くらもちふさこのマンガ『百年の恋も覚めてしまう』を上げることができるだろう。この作品で、このような瑣末な要素に割り当てられている位置づけは、二つある。ひとつは、われわれの幻想を破壊する要素として、突然、視界に入ってくるもの。つまり、「百年の恋」をも覚めさせてしまうような欠点や短所として立ち現われてくるものである。しかし、もうひとつの位置づけは、これとはまったく逆であり、この同じ要素が、幻想の支えにもなりうるということである。つまり、癖や好みといったものは、その人物がキャラクターになることを支えていると同時に、それを破壊する要素にもなっているのである。


 場所と日常生活。この二つを問題の俎上に上げたとき、立ち現われてくる問題とは、われわれの日常生活から、瑣末な要素が許容される場所が剥奪されつつある、ということである。この意味での場所とは、限定された空間、ローカルな空間のことである。固有の物差しが成立するのがそうした場所ということである。その点で、アニメやマンガ作品に見出すことができる場所の閉鎖性にもっと注目すべきだろう。そこでは、ある種の制限が加えられており、その制限こそが、その作品の中で可能になることの条件になっているのである。


 開かれることと閉じること。一般的には、しばしば、閉じることよりも開かれることのほうに価値が置かれているが、しかし、そんなに単純に物事を処理することはできないだろう。開かれているか閉じているかの二者択一ではなく、そこに、もう少し、複雑なものを見出すことによって、問題になっているものを考えていく必要がある。


 次回以降は、小さな場所で起こる小さな出来事というものについてもっとよく考えてみたいと思う。問題になっているのは、われわれの日々の生活と生の充実との関係はどうなっているのか、ということである。