アニメを見ること、生活のリズムを刻むこと

 前回は、小さな場所で起きる小さな出来事、様々な小さな物語の輪郭を描いた。小さな物語とは、言ってみれば、日常生活という架空の中心の周囲に生み出される物語だと言える。様々なアニメ作品において、日常生活は、単に仄めかされるだけであって、それが直接描かれることはない。というよりも、物語に始めと終わりがある限り、生活それ自体を描き出すことは不可能だと言える。しかしながら、近年の作品においては、生活に触れたいという志向性が非常に顕著であるように思える。地面に根を下ろした生、充実した生をそこに見出したいわけである。


 他人の生ほど、充実した生という錯覚をもたらすものはないと言えるかも知れない。まさに、ブログというものは、そのような好奇心を満たすための材料になっているだろうが、そこで見出したいものとは、他人の生活の背後にある何か充実したものだと言えないだろうか? ここでいう充実したものとは、別段、幸福な出来事である必要はない。むしろ、不幸な出来事のほうが、何かそこに充実したものを見出すことができるように思える。他人の不幸を知ることによって自分の生活の幸福さ加減を知るということが問題なのではなく、不幸な出来事によってもたらされた日々の充実さ、一日を送ることの意味の重さを実感できるわけである。


 さて、このような文脈の中で、アニメを見ることとアニメについて語ることを少しばかり問題にしてみることにしたい。つまるところ、われわれの生活において、この二つの行為が意味していることを明らかにしてみたいわけである。


娯楽ではないようなアニメについて
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20060731#1154323894


 以前に書いたこの文章から出発してみたい。ここで僕は、娯楽であるようなアニメ視聴とそうではないアニメ視聴とを対立させたわけだが、これは、アニメを見ることに関わる問題設定である。定義を厳密にしておけば、「娯楽であるようなアニメ/そうではないアニメ」とは、対象としてのアニメ作品の性質が問題になっているのではなく、アニメ作品をどのようなものとして消費するのかという視聴行為に関わる区別である。そして、この文章で僕が強調したかったことは、娯楽という観点からどのようにアニメを消費しても、娯楽という枠組から洩れ落ちるものが回帰してきて、それがわれわれの視聴に常に影響を与えているはずだ、ということである。つまり、娯楽であるようなアニメ視聴とそうではないアニメ視聴とは、「あれかこれか」という単純な対立ではなく、相互に影響し合っているものだと言えるのである。


 少し前に、ゲームをすることの意味(ゲームをすることの実存的な意味)を問題にしたが、同様の仕方で、アニメを見ることやアニメについて語ることも問題にすべきだろう。ゲームをすることのうちに不合理なもの(RPGで、ゲームを終わらせた後でも、レベルを最大限まで上げようとすることなど)を見出すことができたが、同様に、アニメを見ることにも不合理なものを見出すことができるだろう。例えば、TVアニメを見なければならない(場合によっては、放送されるすべてのアニメを見なければならない)という強迫的な態度がそれだと言える。


 これは、TVアニメに限らず、ゲームやライトノベルについても言えることだろうが、それらのコンテンツが外からもたらされる、というその構造に問題点があるように思える。つまり、毎週放送されるTVアニメや、特定の発売日になると店に入荷してくるゲームやラノベ、といった構造である。こうした流れや分節化、あるいは、リズムは、消費者の実存にとっては、完全に外的なものだと言えるだろう。つまり、それは、個人の生活にとっては、無関係なものだと言っていい。個人の生活のリズムとTVアニメの放送のリズムとは無関係だと言っていいだろう。しかしながら、その無関係なもののはずのリズムに、自らの生活をむしろ合わせようとする人たちがたくさんいるということが、現代の問題というか、実存の問題であると言えるだろう。つまり、アニメを見ることに関して提起できるひとつの問題とは、生活のリズムを刻むことの問題だと言えるのである。


 アニメにおける時間の流れというものにもっと注目してもいいかも知れない。つまり、(一般的なTVアニメの)30分という時間が意味していることとは何か、ということである。あるいは、前半15分、後半15分という時間の区切りがもたらす効果とはどのようなものなのか、と。今のところ、僕には、はっきりしたことは言えないが、少なくとも、このようなアニメ放送の形態が、作品の内実にも影響を与えていることは間違いないだろう。そして、それは、作品の内容のレベルだけでなく、作品を見るわれわれの視聴のレベルにも影響を与えていると思われる。


 例えば、ひとつ問いを提起してみれば、CMは作品の一部であるのかどうか、という問題があることだろう。DVDに作品が収録されるときにはCMが存在していない、ということから、CMが作品にとって完全に外部のものだと決めつけることはできないだろう。というのは、CMがそこにないとしても、CMの前後に挿入されるアイキャッチは残っているからである。つまるところ、CMは、作品にとって外部の位置にあるとしても、作品にひとつの切断をもたらしている限りにおいては、作品にとって内的な位置にあると言えるのである。それがもたらす効果とは、休止の効果、リズムを刻むものとしての効果だと言えるだろう。


 さて、リズムということから、反復の問題、新しいものと古いものという問題をもたらすこともできるだろう。例えば、いわゆる「新番組」というものは何が新しいのだろうか? 新聞のTV欄に書かれる「新」という文字がもたらす錯覚的な効果についてよく考えてみる必要があるだろう。そこには確かに何か新しいものがもたらされているだろうが、しかし、そこには、また、古いものも、反復されるものも、もたらされていると言えるだろう。つまり、そこでは、またしても、アニメが放送されるのであって、その点では、すでに起こった同じ出来事がまた反復されているだけだと言えるだろう。


 ここに見出されるのも、物語と日常生活との対立ではないだろうか? つまり、TVアニメには、始まりと終わりがある。全何話かの違いはあるが、そこには、ひとつのまとまりがある。最終回を迎えたとき、そこにはひとつの区切りを見出すことができる。しかし、その区切りが、われわれの生活の区切りになりうるとは限らないだろう。むしろ、まったく無関係の場合がほとんどであるだろう。だが、時として、われわれは、このような外的な区切りを自分の生活の区切りと見なしていないだろうか? 例えば、古い年が去って新しい年がやってくる。しかし、このような年月の移り変わりと自分の実存との間に、果たして密接な関係があると言えるのだろうか?


 果たして、自分で自分の生活のリズムを刻むことが可能であるかどうかは分からないし、できたとしても、それはかなり困難なことであるだろう。だが、少なくとも、個々人の人生のリズムは、他人とは共有することはできないし、それを一般化することもできないだろう。


 いったい、われわれの生活の根はどこにあるのだろうか? この問いの答えは、当然のことながら、個々人によって異なることだろう。しかしながら、僕は、快楽を獲得するために行なわれる消費活動に生活の根を下ろすことには限界があると思っている。嗜癖というのがその失調の現われだと思うのだが、それは、嗜癖が、快楽とは真逆の方向に向かうことだと思われるからである。つまり、快楽が痛みを遠ざけることであるのなら、嗜癖とは、あえてその痛みを獲得しようとすることだと思われるからである。何かから治るために用いられるはずの薬を過剰に摂取するオーバードーズ。同じような仕方で、アニメを過剰に見ることによって逆説的に見出されるものとは、われわれの現実、われわれの生活の根を下ろすための場所の問題である。


 アニメについて語ることのほうはまた別の機会に問題にすることにして、ここからまた、作品のレベルに戻っていくことにしたい。限定された場所で起こる小さな出来事。その出来事をどのように整理することができるだろうか? ここで、これから問題にしていくことにしたい二つの観点を提出しておきたい。ひとつ目は、日常生活を枠づける形式の問題、例えば、ハレとケというふうに、日常生活にリズムを与えることの問題である。このことを端的に扱っているジャンルとして、学園ものを取り上げてみることにしたい。ふたつ目は、有限な生という問題である。過去に戻ることはできない、人生をやり直すことはできない。そもそも、こうしたことがひとつの問題であるとすれば、その問題とはどのような種類の問題だと言えるのだろうか? そこでは、いったい、何が問われているのだろうか? 『涼宮ハルヒの憂鬱』や『時をかける少女』といった現代の作品が問題にしていることを、改めて扱ってみることにしたい。