GONZOスタイル

 実を言うと、数週間前に、『ブレイブストーリー』の映画を見に行ったのだが、途中で眠くなってしまって、内容を正確に掴むことができなかったので、ブログにこの作品の感想を書くことは控えていた。しかしながら、映画を見る前に少し思ったことを書けば、この作品は、『銀色の髪のアギト』もそうであるが、GONZOのアニメの雰囲気がほとんど感じられないアニメである。おそらく、意図的にだろうが、GONZOは、その劇場作品において、自らが築き上げてきたスタイルや雰囲気といったものを抑圧している。その理由がなぜなのかということはここでは問わないが、そもそも、GONZOがTVアニメにおいて築いてきたスタイルというものがどのようなものなのか、ということを少し書いてみたい。


 GONZO作品のテーマとは、端的に言って、高度にテクノロジーが発達して以後の世界において人間というものはどのようにありえるのか、というものである。こうした問題は、ジブリ作品においても提起されているが、ジブリがテクノロジー以前の世界というものとの関連で、ある種ノスタルジックに、問題を提起しているのに対して、GONZOは、近未来という、現代以上にテクノロジーが発達した世界を提示することによって、問題を提起している。


 それゆえ、GONZOの世界においては、「人間の温もり」とでもいうべきものが徹底的に排除されている。人間と機械は、ほとんど、等価物である。人間もまた、システムの一部であり、機械のように行動する。『SAMURAI7』や『GADGUARD』が描き出しているものとは、まさに、そのようなものだろう。


 こうした点で、GONZOが好んで描くアクションシーンとは、機械の動作としてのアクション、ひとつひとつポイントを通過していくことによって動作が進行していくようなアクションである。剣を使ったアクションシーンもいくつかあるが、やはり、GONZO作品においては、銃の活躍が顕著であるだろう。『爆裂天使』、『クロノクルセイド』、『ファイナルファンタジー:アンリミテッド』といった作品が思い出される。銃の役割とは、つまるところ、人間が機械の一部になるということ、正確に狙いをつけて弾丸を発射する装置の一部になるということである。


 GONZOの作品では、一見するとファンタジーのような作品もあるが、上記の理由から、その多くは、SF的な作品となる。GONZOにおいては、あらゆるジャンルがSF化されると言っていい。『SAMURAI7』、『巌窟王』、『ガラスの艦隊』といった作品は、時代劇や史劇がSF化した作品だと言えるだろう。どうしても、そこに、機械という要素が入り込むのである。


 さらに言うならば、そこでのSFは、ハードボイルドの要素が入ったSFだと言える。ハードボイルドの主人公は、自らの感情というものをまったく表に出さず、あたかもシステムの一部であるかのように行動するが、それこそが、GONZOのアニメの雰囲気である。それゆえ、そこで登場人物たちの背景をなすものとは、都市であり、夜であり、デジタルな世界である。地方の昼のアナログな世界は、GONZOの世界だとは言えない。黒こそがGONZOの色であり、そうした点で、『GANTZ』、『バジリスク』、『BLACK CAT』といった作品は、GONZOと相性のいい作品だと言える。


 人間的な感情を表に出さないとは言っても、やはり、GONZOは、人間というものを扱う。GONZOは、人間と人間との関係を描こうとするが、それは、既存のあらゆる人間関係を超えたところにある人間関係とでも言うべきものを目指そうとしているかのようである。問題となるのは、都市における人間関係であり、感情というものを一度括弧に入れた後に築かれる人間関係である。こうした点で、『銀色の髪のアギト』や『ブレイブストーリー』は、あまりにも直接的に人間というものを描いている点で、GONZOらしくは思われないのである。


 アニメーションのクオリティという観点から見たGONZOというトピックもあるが、それはひとまず措くとして、こんなふうに、GONZOは、良しにつけ悪しきにつけ、TVアニメをひとつひとつ作っていく中で、ひとつのスタイルを作り上げたように思える。GONZOは、自分自身をブランド化しようという野望を明確に持っているが、そうした野望を持っているのであれば、なおさら、自分自身で築いたスタイルを貫いたほうがいいのではないだろうか? 次の劇場作品では、非常にGONZOらしい作品を期待したい。