喪失感と諦念――アニメ『WHITE ALBUM』に見出される時代認識

 『WHITE ALBUM』のアニメを最後まで見たので、またちょっと感想を書いておきたい。


 この作品を見ていて個人的に気になったのは、昭和と平成という時代の違いがどこにあるのかとか、80年代はどういう時代だったのかとか、そのようなことである。このアニメが描いている1986年(昭和61年)という時代、僕は小学生くらいだったが、果たして過去の自分の実感として、このアニメで提出されているような時代の描き方で問題がないかどうか、自分もまたこのような世界を生きていたのかどうか、そういうことがやはり気になるのである。1986年が仮にこのアニメで描かれるような時代だったとして、それから現在まで、果たして時代はどんなふうに推移していったのだろうか、と。


 しかし、アニメをずっと見ていて思ったのは、おそらく、このような問いの立て方は間違っているのではないか、ということである。このアニメ作品が舞台にしている時代は1986年であるが、原作のゲームが発売されたのは1998年(平成10年)である。そして、2009年(平成21年)の今年にこのアニメが放送されているという、80年代、90年代、ゼロ年代という10年ごとのスパンについて、むしろ考えるべきなのではないか、ということを少し思ったのだ。どういうことかと言えば、このアニメ作品は、現在という時点から直接に80年代の昭和の時代を回顧しているわけではなく、むしろ、90年代の後半を間に挟む形で回顧しているのではないか、ということである。


 僕がこんなふうに思うのは、現在が不況の時代だからかも知れない。つまり、『WHITE ALBUM』が舞台にしている1986年というのは、バブル前夜ということで、好景気の時代だったはずである*1。80年代のいわゆる消費社会の真っ只中であったはずである。しかしながら、このアニメ作品には、そのような好景気の華やかさというものはまったく描かれてはおらず、むしろ、息苦しいほどの時代の閉塞感のようなものが散見されるのである。


 このような息苦しさがこの作品に漂うのは、時代の問題ではなく、登場人物たちの置かれた人間関係が非常に息苦しいからだ、とひとまずは言うことができるだろう。主人公の藤井冬弥は、アイドル歌手である恋人の森川由綺と引き裂かれ、十全なコミュニケーションを取ることができない。そして、その間を埋めるかのように、様々な女性が冬弥に近づいてくるが、彼女たちと親密な関係に陥ることもできずに、すべて中途半端なまま、未決状態のまま日常生活を送る。距離を縮めたい者たちはたくさんいるのに、その距離を縮めることができない。そのようなもどかしさがこの作品の息苦しさを生み出しているとひとまずは言うことができるだろう。


 しかしながら、僕は、このアニメ作品が、まさに現代に作られているというところから、やはり、何かしら時代というものを描き出そうとしているように思うのである。つまり、『WHITE ALBUM』は、現代という時代の実相を描き出すために、昭和の時代というものを持ち出してきたのだが、そこでの昭和というものは、昭和の時代そのものではなく、むしろ、90年代末の不況の時代が反映された昭和の時代ではないかと思うのである。


 言い換えると、『WHITE ALBUM』には二つの視点が混在しているのではないかと思う。ひとつ目の視点は、90年代末が80年代の消費社会をまなざす視点。これは、不景気の時代から好景気の時代を懐かしむ視点である。もうひとつは、現在から90年代末をまなざす視点。これは、現在の不景気の時代から90年代末に起こった不景気をまなざす視点であり、ここに見出されるのは、現在という時代が90年代末のある種の反復になっているという時代認識である。


 この二つの視点が混在しているため、この『WHITE ALBUM』というアニメ作品においては、80年代の消費社会に対してやや懐疑的な見方が提示されているように思える。80年代の華やかさを代表する存在がアイドル歌手だったとすれば、『WHITE ALBUM』がアイドルたちに向ける視線は、どこかうらぶれていて、物悲しげである。


 『WHITE ALBUM』におけるアイドルの描き方について、例えば、最近のアニメ作品を持ち出せば、『かんなぎ』や『マクロスF』と比べるとどうだろうか。『マクロスF』においては二人のアイドル歌手が登場し、『かんなぎ』においては土地神の存在が一種のアイドルとして描かれているわけだが、どちらにおいても問題になっていたのは、物神性とでも言うべきもの、つまり、ひとりの人間がその人間以上の存在になることで発揮する魅力である。初代『マクロス』においては、まさに、そのような魅力が敵の闘争心を萎えさせる兵器にもなることが描かれていたわけだが、このような魅力という側面から見ると、『WHITE ALBUM』に出てくるアイドル歌手たちには、すでにどこかそのような魅力を奪われているところがある。単なるひとりの女性にすぎないはずの由綺が、恋人の冬弥から遠く離れた場所に存在するアイドル歌手になってしまったという距離感が本来なら描かれるべきなのだろうが、アイドルの魅力というものが言わば艶消しされているので、アイドルの存在の果敢なさといったもののほうが強調されているように思うのである。


 再度何が問題になっているのかを言えば、ここには視点のずれというものがあるのだ。80年代当時の人々がアイドルに向ける視線と90年代の終わりの人(何かを喪失した人)が80年代のアイドルに向ける視線との間にずれが存在するのである。『WHITE ALBUM』には終始このように、1986年の世界というものを遠くから眺めているような視線というものが存在する。アイドル歌手の彼女たちは、80年代という時代においては、人気の絶頂だったかも知れないが、それが10年、20年というタイムスパンから振り返ってみると、やはりそうした人気というものは一時的なもので、いずれはうらぶれてしまうという、物悲しい目から彼女たちのことが眺められているのである。


 そして、このようなアイドル歌手の存在が、まさに、経済大国と言われた日本の存在とどこか重なるところがあるように思われるのである。つまり、ここには、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと言われた時代状況から現在は遠く隔たってしまったという隔世の感が漂うのである。


 こうした点から言えることは、まさに、この『WHITE ALBUM』という作品は何かを失うことになる物語だ、ということである。果たしてこのアニメ作品の第二シリーズがどのような展開になるのか、それが分からないとはっきりしたことは言えないが、しかし、上記した視点のずれというところから言えば、物語がどのように展開したとしても、この作品は何かを失うことになるだろう、という予感が漂うのである。この作品には、登場人物のひとりが現在の地点から過去を振り返るという回顧的なモノローグは存在しないが、しかしやはり、上記したようなところから、振り返って何かが失われたことを確認するような視点が存在しているように思えるのである。


 『WHITE ALBUM』で描かれている喪失感というものは絶対的な喪失感とでも言うべきものではないかと思う。言い換えると、この作品には、(アニメの『CLANNAD』が描いていたような)平行世界的な分岐の問題が提出されていないように思うのである。このことは、原作ゲームのゲームシステムの違いが影響しているのかも知れないが、エンディングが複数あったとしても、アニメの『WHITE ALBUM』においては、その後の展開が決定的に分かれるような明確な分岐の地点というものを想定していないように思えるのである。


 これは、世界認識の明確な違いと言えるだろうが、ある種の平行世界的な世界認識においては、喪失というものは相対的なものであり、喪失の生じた世界と生じなかった世界とを想定することができるだろう。そのような世界のあり方のずれが、いくつかの美少女ゲーム原作アニメで問題になっているだろうが、『WHITE ALBUM』においては、そのような形では問題が提起されてはおらず、どのように物語が展開したとしても、何か決定的に失われるものがあると、そのような世界認識が提示されているように思えるのである。


 『WHITE ALBUM』においては、キャラクターの選択や物語展開の選択といった問題よりも、時間の有限性の問題が絶えず強調されているように思う。誰かと話すことは同時に誰かと話さないことを意味し、誰かと会うことは同時に誰かと会わないことを意味する。ある時に話せなかった人とその後に話すことができたとしても、また新たにそのときに話すことのできない別の誰かが出てくる。誰しもが経験している当たり前のことだと言えるが、しかし、『WHITE ALBUM』の視点は、そこで何かを選択し何かを獲得したというポジティヴな方面に向かうのではなく、そこで絶えず何かが失われ損なわれているというネガティヴな方面に向かっていくのである。


 『WHITE ALBUM』で描かれるのは、鳴りっぱなしの電話であり、鳴らし続けられるチャイムの音であり、届かない手紙であり、過ぎ去る時間である。ここに浮かび上がってくるのが絶対的な喪失であり、主人公が何をどんなに努力しても失われてしまうもの、回復不可能なものが存在する、ということである。


 それゆえに、『WHITE ALBUM』のアニメに漂う雰囲気とは、喪失感であると同時に、諦念でもあるだろう。僕は、このゼロ年代の雰囲気のひとつに、諦念というものが間違いなくあると思っているのだが、『WHITE ALBUM』は、まさに、どうしても回復することのできないものがあるという諦念を描いた作品であると言うことができるように思うのである。


 僕は、ここで問題になっている諦念というものを単にネガティヴなものとしてだけ捉えるべきではないと思っている。というのは、諦念とは夢の終わりのことであるとひとまずは言うことができるだろうが、『WHITE ALBUM』がそうした夢の終わりを印づけているとしても、そんなふうに一度は夢から覚めないと、時代の見ている夢というものを相対化して取り扱うことができなくなるだろうと思うからである。『WHITE ALBUM』はまさしく80年代の夢を対象化した作品であり、現在のわれわれが未だにこの夢を見ているのではないかということを示唆した作品だと言える。


 おそらく、第二シリーズの物語においては、冬が春になるというか、何かしら希望めいたものが提出されるだろうが、そこでのプロセスがどのように描かれるのかに注目したい。そのプロセスが新しい十年代に何かしら道筋をつけてくれるものであればいいと思っている。

*1:はてブで指摘されたので調べてみたが、確かに、1986年はプラザ合意後の円高不況の時期に当たるようなので、「好景気」とは言えない。その点は訂正しておきたい。しかし、このアニメ作品が描こうとしているのは1986年という特定の年ではなく、80年代のアイドル文化に代表されるような消費社会の虚構性といったものだと思われるので、そうした点ではこの訂正が僕の論旨に大きな影響を与えることはないと思う。