日本アニメのノスタルジックな風景



 ノスタルジー。この感情と日本のアニメーションとは密接な関係を持っているような気がする。ノスタルジーとは、故郷に想いを馳せることである。失われてしまったものを想起すること。過ぎ去ってしまった時間、消え去ってしまった風景を思い出すことである。


 『おもひでぽろぽろ』の中に、こんな台詞があった。田舎の風景は、それが自分の故郷でもないのに、なぜか懐かしい、と。これは、多くのアニメーションの風景について言えることである。そこに示された風景は、仮構された風景である。それはどこにもない。しかし、それをどこかで見たことがある。そのような風景を描くことが、日本のアニメーションの隠れた衝動になっているのではないか?


 日本アニメーションが作った世界名作劇場の諸作品を思い起こそう。そこで示されている風景は、すべて、外国の風景である。それも、そこで主として描かれているのは、19世紀後半から20世紀初頭にかけての、まだ近代化がそれほど進んでいない、地方の風景である。世界名作劇場は、そうした風景を好んで描くことによって、何がしたかったのだろうか? その目的は、ノスタルジックな風景を喚起させることだったのではないか? そこで描かれた風景は、実際には誰の故郷の風景でもない。しかし、それは、なぜか、多くの人にとって、懐かしい風景となるのだ。


 これこそが、ファンタジーの源泉ではないのか? ノスタルジーが投影される虚構の風景。こうした点から言えば、日本のアニメーションのほとんどが、ファンタジー作品であると言える。『アルプスの少女ハイジ』も『あらいぐまラスカル』も、ファンタジー作品に他ならない。これらの作品の根底には、『となりのトトロ』が内包しているのと同じ衝動を見出すことができないだろうか? そこには、一種のユートピアが立ち現われているのである。


 『ラスカル』の魅惑的なところとは、人間と動物が共同生活することは可能なのではないか、という錯覚を引き起こさせるところである。この作品では、人間と動物が、隣り合って生活している。動物たちが住んでいるところに人間が住んでいるのか、人間たちが住んでいるところに動物が住んでいるのか、その境界線は曖昧に描かれている。ラスカルは人間の生活に入り込んできた動物だ。だが、ラスカルは、まるで、初めから人間の世界に生まれてきたかのように、様々な道具を使用するのである。


 こうしたことは、『ど根性ガエル』のような作品についても言えることではないだろうか? 転んだ拍子に胸で蛙を押しつぶしてしまう。そのようなことを、現代の都市生活の中で、体験することができるだろうか? 胸で蛙を押しつぶすという経験と、蛙がプリントされたTシャツとの間に横たわる溝は、見た目以上に大きい。Tシャツに蛙の図柄をプリントすることは容易だが、蛙を胸で押しつぶすことは困難だ。その大きな溝を、『ど根性ガエル』は、見事に飛び越えていないだろうか?


 自然と文化の距離、人間と動物の距離は、今日、ますます離れていっている。このとき問題になっているのは、動物のことよりも、われわれ人間は根無し草だ、ということである。故郷喪失者としての人間が問題なのである。そのとき、アニメーションは、われわれの帰る場所を仮構した。しかし、その場所は、ありえない場所、ユートピアである。それゆえ、その風景の内に漂っている感情は、ノスタルジーでしかありえない。帰りたいけれど帰れない場所。それが日本アニメの風景ではないのか?