無能の人



 人間という存在は、その主観性と客観性との間に、矛盾をはらんでいる。主観的に言えば、自己の存在というものは、かけがえのないものである。それは誰かの存在と取りかえることのできないものである。しかし、客観的には、ひとりの人間というだけのことである。これまで無数にいた人間のひとりというだけである。このギャップが、われわれの生活において、様々な問題を引き起こしているように思える。


 われわれの社会において、客観的な価値基準を代表するものは市場である。われわれが、ある商品に対して主観的に与えている価値と、市場がそれに与えている価値との間には、根本的なギャップがある。つまり、ある物が、自分にとってはかけがえのないものであったとしても、市場においてはまったくの無価値だ、ということがありうるのである。


 こうしたギャップを描いた作品が、つげ義春のマンガ『無能の人』だろう。この作品の主人公は川原で拾った石をその川原で売ろうとする。しかし、その石を買っていく人は誰もいない。それは当然のように思えるが、しかし、なぜそれが当然なのか、その理由を説明するのは難しい。


 主人公の「石を売る」という行為が、この作品の中で極めて自然に描かれているのは、実際に石が商品となっている市場があるからである。実際に石は売買の対象となっている。しかし、主人公の集めた石は売れない。何が売れて何が売れないのか、そもそも売れるというのはどういうことなのか、その原理を考えていくことは非常に難しいことである。


 いずれにせよ、そこには、主観性と客観性との間のギャップが横たわっていることには間違いない。それは、「資本主義下の芸術」を問題にした作品において、繰り返し描かれてきたテーマである。つげ義春が問題にしているのはマンガだが、もちろん、これはマンガだけの話でなく、文学にも、絵画にも、音楽にも言うことができる。作品としては素晴らしいが売れない、あるいは、売れているけれども作品としてはクズだ、というギャップである。


 ここで問題とすべきことは、「売れる/売れない」という客観的な価値基準の他に、別の価値基準を打ち立てることが可能なのかどうか、ということだろう。つまり、「好き/嫌い」と「売れる/売れない」との間に、別の価値基準を打ち立てることは可能か、ということである。


 そして、さらに問題を提起すれば、われわれは完全に主観的に、物事の価値判断をすることが可能なのだろうか? われわれは、しばしば、他人が何を好きと言い、他人が何を嫌いと言うか、そのことを気にしてはいまいか? 何が売れていて、何が売れていないか、ということを。この点で、主観的な価値基準と客観的な価値基準との間には、ギャップがあるにしても、どこかで結びついている点があるように思える。


 こうした市場の価値基準が問題なのは、それによって、人間の存在の価値も測られてしまうことにある。売れるか売れないか、ここで問題となっているのは商品であり、市場はそのことにしか関心を示さない。だが、この価値基準は人間の価値と密接に結びついていないだろうか? 売れる商品を作る人間と、売れない商品を作る人間。前者の人間は有能であり、後者の人間は無能である。しかし、これは市場にとってだけであって、絶対的にそうであるわけではないだろう。しかし、それでは、市場に対抗できるほどの価値基準が、他に何かあるだろうか?


 おそらく、いろいろとあるだろうが、しかし、そうした価値基準の内部にも、市場の手は入りこんでいることだろう。今まで商品にならなかったものがどんどんと商品となっている。あらゆるものが市場化されている。ということは、つまり、今まで「売れる/売れない」の価値基準では測れなかったものが、その基準で測られるようになってくる、ということである。だとすれば、やはり、主観的に最も価値のある「この私」が市場においてはもっとも無価値であるというこのギャップは、深刻な事態を引き起こさざるをえないだろう。


 それゆえにこそ、今日ほど「愛」というものが脚光を浴びる時代はないように思われる。愛されることが自己の存在の支えとなるのである。だが、しかし、そんなふうに愛されたい人はいっぱいいるとしても、積極的に他人を愛してくれる人はどれほどいるだろうか? ここにも大きなギャップが横たわっているように思える。