傷を負った子供たち



 愛とは、ある個人の固有性を重んじることである。他の人とは置き換えられない、ある個人の固有性を絶対視することである。


 『新世紀エヴァンゲリオン』以降、アニメやマンガなどのサブカルチャー領域は、その様相を一変させた。『エヴァンゲリオン』以降、傷を負った子供たち、「アダルトチルドレン」と呼ばれるような子供たちが、好んで描かれるようになったのである。


 『エヴァ』において、傷を負った子供たちとして描かれていたのは、シンジ、アスカ、レイ、ミサトなどである(TV版の25話と26話で、彼らの内面に焦点が当てられていたことを思い出してほしい)。彼らは、みんな、小さい頃に、精神的な傷を負っている。その心の傷が、現在の彼らの状態、とりわけ、精神的な不調の原因になっている、というわけである。


 『NARUTO』に出てくる子供たちの多くも、そのような心の傷を負っている。この作品に登場する子供たちは忍者であり、様々な敵と闘わなくてはならないのだが、この敵と闘うときに必要となる強さと彼らの心の傷とが密接に関係している。いくつかの登場人物に見られる共通体験とは、次のようなものだ。「自分は捨てられた子供であり、その存在に何の価値も見出されなかった子供である。そんな自分を救ってくれた人がいる。それまで愛情を受けてこなっかった自分に、愛情を与えてくれた人がいる。その愛情に報いるために、今度は、自分がその人のために生きる番だ。その人のためなら死んでもいい」と。かくして、こうした子供たちは、命がけで敵と闘うようになるのである。


 とりわけ、この作品の主人公・ナルトは、愛に飢えた子供である。彼の体内には九尾の狐が封じこめられているのだが、その狐は、里の人々を虐殺した怪物で、そのような怪物が封じ込められているということから、周囲の人たちは、ナルトのことを気味悪がり、忌避するようになる。彼は、忍者学校でも落ちこぼれで、みんなから仲間外れにされている。そんなときに、ナルトに親しく接してくれた学校の先生がいて、その先生のおかげで、ナルトは、忍者の棟梁の「火影」になるという夢を抱いて、日々の忍者の修行をがんばることができるようになるのである。


 しかし、ナルトは、そのような健気な一面だけを持っているわけではない。彼は、基本的に、愛に対しては、貪欲な少年である。彼が決して口にすることのない彼の内面の考えとは次のようなものではないのか? 「自分は価値のない子供だ。だから、誰も自分を愛してくれない。もし自分が愛されるためには、自分が価値のある人間になればいい。だから、最も有能な忍者がなるとされる火影になってやるんだ」と。このような考えを抱いているからこそ、ナルトは、「お前は火影にはなれない」ということをライバルなどから言われると、とてつもなく怒り出すのである。ナルトは、「火影」という言葉に、異常に敏感になっている。新しく火影になろうとする者が、火影という地位を軽視したりすることを言っただけで、ナルトは怒り出すのである。この怒りが示していることは、ナルト自身が自分のことを無能だと思っていることの表われに他ならない。彼は自分に自信がないものだから、他人からそれを指摘されると、それを否定したいがために、過剰に怒り出すのである。


 ナルトの自信のなさが示しているのが、まさに、愛の不足である。もし誰かから、自分の存在の価値を無条件に認められていれば、火影などという社会的な地位に拘泥する必要はないだろう。ナルトが火影にこだわるのは、ナルトの目には、火影の存在が、誰からも愛されるような理想的なものに見えるからである。


 『エヴァ』にしろ、『NARUTO』にしろ、傷を負った子供たちの物語が好まれるということは、そのような主人公に共感を寄せる人たちがたくさんいるということだろう。『エヴァ』以降、そのような物語が氾濫している現状から考えてみると、問題は、そうした子供たちの親にだけ帰せられるものではなさそうだ。親というのは、子供を産んだから、親になるわけではない。ある社会的な役割を引き受けているから、その人が親と呼ばれるわけである。


 ヤンキー先生夜回り先生が注目されている今日、もはや親に愛を求めることなど、初めからあまり期待されていないのだろう。しかし、ある点から考えるならば、先生ほど、親の代わりにならない人はいない。なぜなら、先生と生徒との関係は、契約関係(ギブ・アンド・テイクの関係)であって、親と子のような無償の関係ではないからである。先生が親の代わりをしなければならないというのは、由々しき事態ではないだろうか?