愛の飛躍



 事実という言葉ほど、われわれを欺く言葉はない。何か出来事が起こったとしても、それは、何かが起こったというだけであって、それ以上の意味が予めそこにあるわけではない。意味づけは常に事後的に行なわれる。そして、その意味づけは、絶えず、更新され続けるのだ。


 『ピーチガール』というアニメを見ていると、いつも、このようなことを考えさせられる。人間が何かをした。それは事実である。しかし、その行為の意味は、絶えず変化していく。それがどのような文脈に置かれるかで、行為の意味が変わっていくのである。


 この作品の原作は少女マンガであり、ほとんどの少女マンガがそうであるように、愛を問題にしている。『ピーチガール』が示していること、それは、愛とは信じることだ、ということである。


 この作品は、基本的に、4人の登場人物によって、物語が展開していく。主人公の安達もも。安達の恋人である東寺ヶ森一矢。東寺ヶ森と付き合っている安達のことを妬み、東寺ヶ森を自分のものにしようと考える柏木さえ。安達のことを恋い慕っている岡安浬(かいり)。安達と東寺ヶ森というカップルを中心にしたこの四角関係によって、物語は進展していくのである。


 作品の第1話で、安達と東寺ヶ森は恋人同士になる。この点は、昔の少女マンガと今の少女マンガとの大きな違いであるだろう。昔の少女マンガでは、主人公が憧れの男性と恋人同士になることによって話が終わるのがパターンだった。しかし、今の少女マンガの中には、主人公が誰かと恋人同士になったところから話が始まるものも、かなりの数あると思われる(おそらく、昔の少女マンガのパターンのほうが、現在でも、数としては多いだろうが)。


 それはさておき、安達と東寺ヶ森が、お互いのことを信頼し合っていれば、たとえ競争相手が出てきたとしても、特に問題はないことだろう。このカップルの場合、安達のほうは、一途に東寺ヶ森のことを愛する女性なのだが、東寺ヶ森のほうはそうではない。別に、安達のことを愛していないわけではないのだが、彼は、ありもしないことを次々と東寺ヶ森に吹き込む柏木さえの言葉を信じてしまうのである。ある出来事に対して、安達の言っていることと柏木の言っていることとが対立したとき、東寺ヶ森は安達の言うことを無条件に信じることができない。この不信の感情によって、このカップルは動揺するのである。


 それゆえ、この物語は、東寺ヶ森と柏木という二人の登場人物によって展開していく、と言っても過言ではないだろう。安達と岡安は、一途に愛を貫く、純真な人間として描かれている。それに対して、柏木は、嘘を言っても恥じることのない厚顔無恥な人間である。東寺ヶ森は、非常に真面目なので、柏木の嘘を、それが嘘だとはっきり分かるような証拠がない限り、嘘だと断定することができない。そのため、彼は、自分の恋人の言うことを信じ切ることができないのである。


 この作品が示していることとは、愛とは飛躍だ、ということである。何か確実な証拠があるから、誰かを愛するわけではない。確実な証拠がないときに、それでも、相手の言うことを信じること。この飛躍こそが愛だ、というわけである。従って、この作品の真の主人公とは、東寺ヶ森であるように思える。彼は絶えず試練にさらされている。彼は非常に慎重に行動するので、思い切った飛躍をすることができない。暗闇に足を踏み入れる勇気が彼には欠けているのである。


 以上のように考えてくると、このアニメは、極めて宗教的な作品のようにも思えてくる。神の存在を論理的に導き出すことはできない。神の存在を信じるためには飛躍が必要だ。様々な情報が氾濫している現代ほど、何かを信じ切ることが困難な時代はないように思える。まったく何も信じないか、目の前に来たものを何でも信じてしまうか、そのどちらかだろう。