なぜ闘わなければならないのか?



 なぜ闘わなければならないのか? この問いが、いつの頃からか、巨大ロボットものや格闘ものといった、少年向けのマンガやアニメで問題にされ出した(昨年公開された特撮映画『新造人間キャシャーン』で、この問いが無意味に強調されていたことを思い出してほしい)。闘うことの理由がなぜ問われるのかと言えば、それは、そのような問いを発する主人公たちが闘いたくないからである。「なぜ闘わなければならないのか?」という問いが意味していることは、「私は闘いたくない」ということなのである。


 いつの頃からか、闘うことに対して、低い価値が置かれ始めた。悪の組織から世界を守るために闘いつづけることが正義の味方の仕事だったはずなのに、である。闘うことは、いついかなるときでも正しいことではなく、むしろ、それは、正しくないことと見なされている。『グレネーダー』とは、そのような状況の下で、それを前提にして作られたアニメである。このアニメでは、もはや、敵を倒すことには何の価値も見出されてはいない。『グレネーダー』ほど、主人公が葛藤しないアニメは珍しい。主人公が葛藤しないのは、彼女が悪をなす場所に立っていないからである。


 悪をなさざるをえない主人公、それを見事に描いていたのは、やはり、『新世紀エヴァンゲリオン』だろう。主人公の碇シンジは、やむをえない事情で、悪をなしてしまう。彼が友人だと認めた人たちを傷つけ、殺害してしまうのである。それゆえ、ここでいう悪とは、もちろん主観的なものである。ある立場の者にとってはそれが善であっても、別の誰かにとっては悪と見なされる行為。そのような相対的な悪がここでは問題なのだ。


 この主観的な悪に対して、サブカルチャーが提供し続けている解決策とは、次のようなものだ。「そうした悪をなすことは、仕方がないことだ。悪をなさねばならない、やむをえない事情がある。それは、最終的には善をなすことに通じる必要悪である」と。


 最終的に善にいたるためなら、その過程で悪をなしてもよい、というこの発想を、何の譲歩もなく、受け入れることができるだろうか? そもそも、そこで未来形によって語られている善に対して、何の疑問も差し向けなくてもいいのだろうか? そうした善は、単に、そこで悪をなすことの口実にすぎないのではないだろうか?


 『新世紀エヴァンゲリオン』で、碇シンジは、勇気ある決断をなしたと言える。とりわけ、それは劇場版において、そうである。彼が拒絶したのは、次のような物語である。「敵がやってきている。その敵によって人々が苦しんでいる。その人々の苦しみを止められるのは、お前しかいない。お前しか敵と闘える人間はいない。お前が闘わなければ、人々はよりいっそう苦しむことだろう」。このような無言の脅迫によって、シンジは、第1話で、エヴァに乗って敵と闘いに行くことになる。その後も、何度か、彼は、この脅迫によって掻き立てられた罪責感によって、エヴァに乗り続ける。しかし、彼は、最終的には、エヴァに乗ることをやめるわけである。


 罪責感から解放されるために敵と闘うことを選ぶ。その暗部を描いた点で、『ジンキ・エクステンド』は、『エヴァンゲリオン』以降の作品と言えるだろう。だが、その突っ込みも、解決策も、非常に甘かったと言わざるをえない。結局のところ、奇跡が起こることによって、問題がすべて解決してしまった。


 闘わざるをえないから闘う。そうした切羽詰まった状況は、『ジパング』にも見出すことができる。しかし、この作品の中で、主人公たちがどれほど正しいことを言ったとしても、この作品の根底に流れる衝動、つまり、日本人がアメリカ人に対して抱いている劣等感を何とかして拭い去りたいという衝動は、隠し切れていない。この「隠し切れていない」というところが、この作品を、注目に値する作品にしている。


 それゆえ、われわれは、「闘いたい」という衝動に、もっと目を向けるべきではないだろうか? なぜ、わざわざ、第二次大戦の時代に自衛隊巡洋艦がタイムスリップする、といった話を作る必要があるのだろうか? なぜ、主人公が、巨大ロボットに乗りこまなくてはいけないのか? いったい、われわれは、そこで何を見たいのかということについて、もっとよく考えてみるべきだろう。われわれは、どのような物語を欲しているのか、ということを。