蘇る竜王伝説



 『レジェンズ』と『陰陽大戦記』、この二つの作品には、多くの共通点を見出すことができる。


 まず、この両作品とも、おもちゃ会社とのタイアップによって作られたアニメ作品である。主人公は、商品となっている玩具によって、敵と闘う(この点で、『レジェンズ』は、主人公の使う道具が玩具であるというメタレベルを、作品内に組み入れていて興味深い。つまり、主人公の使う道具は、おもちゃ会社に勤める父によって作られた玩具なのである。そして、その玩具を製造している会社が、主人公の敵、悪のおもちゃ会社「ダークウィズカンパニー」なのである)。第二に、道具を用いて闘う人物と、その道具によって操られる精霊との関係が密接であること。お互いの関係は、主人と使用人との関係ではなく、親密なパートナー同士の関係である。そして、第三に、そこでパートナーになっているのが、アニミズム的な精霊という点である。


 第三の点をもっと注意深く見ていくことにしよう。『レジェンズ』に出てくる精霊は、土水火風という自然の四つの元素に、それぞれ分類されている。つまるところ、「レジェンズ」と呼ばれる精霊たちは、自然の象徴なわけである(『陰陽大戦記』も同様に、四つの元素を表わす四神、青竜・白虎・朱雀・玄武が出てくる)。


 この点は、作品のストーリーとも密接に関わっている。この作品は、基本的に、自然と文明との争いを描いている。文明の黄昏時に現われるというジャバウォック。それは文明の存在そのものを象徴している。レジェンズたちの存在理由は、このジャバウォックと闘うことにある。ジャバウォックとレジェンズたちとの全面戦争が「レジェンズ・ウォー」と呼ばれる戦いであり、主人公たちは、何とかして、この全面戦争を回避しようと奔走するのである。


 つまるところ、『レジェンズ』という物語が描いているのは、文明と自然との間で板挟みになった人間の無力さである。文明は、人間が生み出したものではあるが、ジャバウォックという怪物の姿でそれが端的に描かれているように、人間自身によってはもはや制御することができなくなってしまった自律した怪物なのである。だが、他方において、人間は、自然から足を踏み外してしまった存在であり、もはや文明に依存することなしには、生きることはできない。このジレンマこそが、この作品の主題である。


 最終回までの流れを見る限り、このようなジレンマを徹底化する方向には、残念ながら、話が進まなかった。結局のところ、自然と文明との共存という形で、話が落ち着いてしまった。そこで最後に示されたのは、文明に寄り過ぎないという方向性、自然を顧みるという方向性である。


 ところで、奇妙なことに、この最終回において、『レジェンズ』は、さらに『陰陽大戦記』に接近する。最終回になって、記憶の問題、忘却の問題が提起されるのである。『陰陽大戦記』では、闘神士のパートナーである式神が戦闘に敗れると、その闘神士は、自分の式神と過ごしてきた日々のことをすべて忘れてしまう。同様に、『レジェンズ』の最終回では、主人公たちが、自分のパートナーとの別れに際して、その記憶をすべて失ってしまうのである。この最後の付け足しは、いったい、何を意味しているのだろうか?


 この付け足しによって示唆されているもの、それは、まさに、自然の観念そのものである。レジェンズたちは、その姿が見えなくなり、人間たちの記憶から消え去ったとしても、常にそこにいるのである。たとえ、誰もその存在を認めなくても、それはそこにいる。これこそが、まさに、自然の観念そのものではないのか?


 最終回の最後の場面で、主人公のパートナーである(風の竜)シロンがネズミの姿になるのは、非常に示唆的である。それが象徴しているのは、忘れられた記憶の存在、文明の下意識としての自然そのものではないのか? 主人公もシロンも、お互いのことを忘れてしまった。最終回の最後の場面で、二人が再会することはない。しかし、二人は、過去に出会ったかも知れないし、将来出会うかも知れない。このような可能性の水準がまさに「伝説」の水準であり、そのような非時間的な次元を描いたという点で、この作品は、そのサブタイトル(「蘇る竜王伝説」)に相応しいものであった。


 『レジェンズ』も『陰陽大戦記』も、その背景に響いているのは、『ほしのこえ』のラストの台詞、「僕は、私は、そこにいるよ」である。あるいは、『千と千尋の神隠し』を思い出してもいいだろう。千尋は、異世界という別の場所に立つことによって、自分の世界に存在していた神々の姿をこの目で見るのである。このような反省は、われわれの孤独の感情から要請されてきたものだろう。世界と繋がりを持ちたいという思いがそこには見出されるのである。アニミズムの神が自分のパートナーになるというこの短絡。そこから窺い知れるのは孤独な人間の姿だけである。